2010年8月18日水曜日

[説教要旨]2010/8/15「分裂を越えて」ルカ12:49-53

聖霊降臨後第12主日

初めの日課 エレミヤ 23:23-29 【旧約・ 1221頁】
第二の日課 ヘブライ 12:1-13 【新約・ 416頁】
福音の日課 ルカ 12:49-53 【新約・  133頁】

 本日の福音書で主イエスは、前節に引き続いてまず弟子たちに向かって語られ、ついで54節以下では彼らを取り巻く群衆に向かって語られる。そして、弟子たちに向けられたこれらの言葉に、現代の読者は大きな戸惑いを憶えずにはいられない。
主イエスは「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである」、また「あなたがたがは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。」と語られる。一読すると、それらは私たちが考える、主イエスのあるいはキリスト教のイメージを裏切るもののように思われるし、何よりもこれまで主イエスが語ってきたことと矛盾するように見える。さらに54節以下で群衆に向かって語られる部分に目を向けると、「時を見分ける」ことについての警告が語られた直後に和解の勧告が語られていることが、この困惑をさらに大きなものにする。一方で火と分裂をもたらすことを語りながら、なぜ和解を勧めるのだろうか。
 火が地上に投じられるという言葉は、たしかに創世記で語られるソドムとゴモラに起こった「滅び」あるいは黙示録で語られる「裁き」のイメージを私たちに呼び起こさせる。しかし、聖書の全体を通して見るならば、「火」とは神の臨在の徴でもあった。とりわけ出エジプト記では、燃える柴のうちに神はモーセの前に現れ、また「火の柱」によって夜の闇の中を歩む民を照らされた。またギリシアの影響を受けた地中海文化圏では、火は神から人間に与えられた知恵の象徴としても捉えられていた。その意味で、主イエスが地上に火を投ずると言うこと、それは救済であれ裁きであれ、主イエスが地上に来られたのは神の力をこの地上にもたらすためであることを示している。そしてその神の力は、主イエスが受けられる苦難と切り離すことは出来ないのである。
 主イエスの受難を通して、神の力がこの地上に現されること、それはまさにキリスト教会が伝える「福音」(良いメッセージ)に他ならない。そしてその福音は、神が平和と調和とをこの地上にもたらされることと切り離すことが出来ないはずである。にも関わらず、主イエスは地上に平和をもたらすために来たのではないと語られる。エレミヤ書では神の怒りを前にして、偽預言者が人々に平和が与えられ現状が維持されることを約束し、むしろ真の預言者エレミヤは、人々に苦難と分裂が襲うことを訴える。しかしそれは神の力がこの地上に及んで、うわべだけの偽りの平和ではなく、真の意味での平和が実現するために、通らなければならない道であった。
 現に、真の平和は未だこの地上に実現してはいない。私たちは闇の支配するこの地上において分裂と対立とに苦しみ悶えながら、神の国を待ち望むのである。しかし、私たちの歩む闇夜を主イエスの十字架と復活の出来事が照らされている。その福音(良いメッセージ)は、あらゆる分裂を超えて、真の和解と平和と調和をもたらすのである。平和について思いを向けるこの8月15日、真の平和とは何かということを私たちが聖書から聞くことが求められている。

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