2010年8月7日土曜日

[説教要旨]2010/8/1「和解をもとめて」ルカ11:1-13

聖霊降臨後第10主日・平和主日

初めの日課 創世記 18:16-33 【旧約・  24頁】
第二の日課 コロサイ 2:6-15 【新約・ 370頁】
福音の日課 ルカ 11:1-13 【新約・  127頁】

 本日の日課では私たちが毎週の礼拝の中で用いる「主の祈り」について語られる。主イエスが教えられたこの祈りは、私たちの生活の目に見える部分と、また私たちの目には見えない部分の全体にわたって、神の守りと恵みが満ちあふれることを願うものであった。その前半では、主なる神に関する祈願があり、「御国が来ますように」ということを私たちは祈る。「み国が来る」とは、神の力がこの地上を覆う、すなわち神の愛がこの地上に満ちあふれる、そのような世が来ることである。しかしこの願いを祈るとき、私たちは一つの疑問にぶつかる。「神の国」が来るということは、私たちの願いでどうこうできることなのだろうか、私たちの願いによって神の国が来るか来ないか、そのことを決することができるのか、そのようにそのような問いを前にすることとなる。しかし実は、そこにこそ、祈りの基本とも言うべき姿がある。祈りとは、私たちの思い通りに神を動かそうとすることなのではない。祈りを通じて、私たちが、神の守りのうちに生きることができるようになること、それこそが祈りの本質なのである。主なる神がそのみ国を来たらせてくださる、そのことに私たちが希望を置くことこそ、この祈りの本質なのである。
 後半では一貫して「わたしたち」が問題となる。そこでも前半同様、「自分に負い目のある人を皆赦しますから」、「わたしたちの罪を赦して下さい」という願いを前にして、問いにぶつかることとなる。果たして、私たちが本当に「皆赦す」ことができるのか。そしてさらに、それは「わたしたちの罪を許して下さい」という時の条件なのか。そうであるならば、私は永遠に赦すことも、赦されることも出来ないのではないか、そのような疑問を持たざるを得ない。しかしここにも、この祈りの本質がある。それはまさに、「神の国が来る」ことと同じく、「私」が赦すか、そしてそれは赦される条件に達しているのかということなのではなく、主なる神が私たちの間に働かれるからこそ、私たちの間に赦しが実現するのである。それは「神の国が来る」ということと同じく、神が働かれるならば、どのように不可能に見えるところであっても、そこに赦しと和解が生み出されること、そこに私たちが希望を起き続けることができるということこそが、この祈りの本質なのである。
 8月第1日曜はルーテル平和主日である。日本という場所を考える限り、たしかに半世紀以上に渡ってそこには戦争は起こっていない。しかし今日の世界では、平和は一つの国、一つの地域だけの問題ではないし、単に戦争状態に無いということだけの問題でもない。真の平和とは、憎悪と敵意とか、和解と赦しへと置き換えられてゆくプロセスの全体である。キリスト者は、そこに神の働きがあることを祈る。キリストは「十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされ」た(エフェソ2:16)からである。だからこそ、人の目にはどれだけ絶望的に見えたとしても、私たちはそこに希望を見いだし続けることができるのである。

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