2015年9月28日月曜日

[説教要旨]2015/05/24「真理の霊が来ると」ヨハネ15:26-27、16:4b-15、使徒2:1-21

「真理の霊が来ると」ヨハネ15:26-27、16:4b-15、使徒2:1-21 聖霊降臨日 初めの日課 使徒言行録 2:1-21 第二の日課 ローマの信徒への手紙 8:22-27 福音の日課 ヨハネによる福音書 15:26−27、16:4b-15 イースター・主の復活の朝から50日目である本日、私たちは聖霊降臨日の礼拝に預かっている。使徒言行録では、過越際から50日目にあたる五旬祭の時、都エルサレムに残された弟子達が、とある家の階上の部屋で集まっていたところに、天から炎の舌のような聖霊が降り、弟子達があらゆる国の言葉で語り始めたとされている。それは教会の宣教が始まった時であるとも言われる。 順序としては逆だが、本日の福音書の日課は、ヨハネ福音書における十字架の直前に、主イエスが弟子達に向かって語る告別説教の一部が取り上げられている。この告別説教の中で、主イエスは、残される弟子達には彼らを助ける力として「真理の霊」が与えられることを約束された。霊=プネウマという語は、風、息、命、魂などなど非常に広い意味を持つ言葉であるが、その共通する要素を取り出すならば、目には見えないが、何かを動かす力であるといえるだろう。そしてここでそれは特に、神の見えない、しかし命を与える力を指し、しかもそれは「真理」の霊である、と語られている。聖書の語る真理、それは、主イエスの十字架によって救いがこの世界において明らかになること、主イエスの命が私たち達とともにあることに他ならない。主イエスの十字架の元から逃げ出してしまった弟子達は、主イエスの新しい復活の命に出会い、彼ら自身が新しい命に生かされる。それはまさに救いの真理を、彼らが体験する出来事であった。 使徒言行録は、その出来事を別の物語として描き出す。聖霊を受けた弟子達は、様々な言語で語り始めたとある。これは、ただ突然に外国語で話し始めたということがというだけではなく、大変奇妙なことであった。使徒言行録の1章では、復活された主イエスに弟子達は、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と問いかける。つまり彼らの関心は、いわばイスラエル民族の内側にもっぱら向いていたことが記されている。辺境の地であるガリラヤ出身者が多かったからこそ、この都において、異国人を放逐し民族的な純粋性を実現し、強い国を打ち立て、人々から賞賛を得たい、という思いが彼らのうちに強く働いたのかもしれない。しかし、真理の霊が降った時、彼らはエルサレムから見るならばいわば「辺境の言語」である「外国語」を話し始める。それはまさに大きな大きな転換点であった。都という中心に向かって内へ内へと閉塞していた弟子達は、真理の霊を受けた時、辺境を自らの中に取り入れることとなった。そしてそのことによって、彼らは外なる世界へと開かれたのだった。辺境出身の鬱屈を解消するべく、異国人を放逐し、民族的な純粋性を実現しようとする、その凝り固まった妄執から、彼らは解放される。そしてむしろ、弱い者、貧しい者へと向かい、分かち合うことに喜びを見出すこと、救いの出来事をまだ見ぬ人々と分かち合うこと、和解の福音を伝えることへと、彼らは押し出されてゆく。真理の霊を受けた弟子達は、隠れていた部屋から踏み出してゆくのだった。 かつて弟子達を解放した命与える真理の霊は、現代に生きる私たちをもまた慰め助け、喜びで満たす力である。それは、空しい過去への妄執から解き放ち、多様なあり方を通して、慰めと励まし、そして喜びを分かち合うことの出来る新しい命の道へと私たちを導く力なのである。

[説教要旨]2015/05/17「よろこびでみちあふれるように」ヨハネ17:20−26

復活節第7主日 福音の日課 ヨハネによる福音書 17:6−19 本日の日課である17章の祈りでは、1節に「イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた。」とあるように、父なる神に向き直り、地上に生きる人間の立場から、わたしたち人間を背負って、執り成しの祈りを神に向かって祈られている。主イエスはその祈りの中で「聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。」(11節)と祈られる。この17章では繰り返し「一つになる」ことが祈られていることに気づく。そして「世にいる間に、これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです」と語る。 ヨハネ福音書の告別説教の全体では「一つになること」が繰り返し語られる。しかし全ての人の顔も色も有無を言わさず同じ色で塗りつぶし、一人一人の区別がなくしてしまう時、個々の人格はもはや尊重されず、交換可能な部品となってしまう。聖書が語る、「一つであること」の本来の意味とは何なのか。 ここでいう一つになるということは、力による抑圧的な同化を意味してはいない。わたしたち人間を背負って主なる神へと向かう祈られる、主イエスのその祈りの中では、「わたし」「あなた」「彼ら」という立場の違いは残されているからである。主イエスが語られる「一つになること」とは、暴力的な同質化ではない。確かに、ある集団が皆同じように考え、同じことを語り、同じように行動することが強制される時、一時的には力を増し、豊かになるかもしれない。その理想型とはまさにかつてのローマ帝国の軍隊であり、近代の戦争をの背景となった軍産構造そのものでもある。しかしその行き着く先は荒廃でしか無いことを、わたしたちは人類の歴史の中で見い出すことが出来る。主イエスが祈られたのは、そのような「一つになること」ではなかった。それぞれに異なる有り様を残しつつも、互いに愛し合い、互いに認め合うことを通じて、一つの命へと結ばれる、そのようなあり方に他ならなかった。それこそがわたしたちが喜びに満ちあふれるためのあり方であった。 しかしながら、わたしたちの現実に目を向けるならば、地上に生きるわたしたちは、様々な場面で、対立し、互いをおとしめあい、争い合うことを避けることが出来ないでいる。わたしたちの生のあり方はあまりにも喜びからかけ離れている。けれども、わたしたちはそのような自分たちの現実に幻滅し、失望することは必要ないのである。むしろ、そのような分裂と対立の現実の中で生きるしか無いわたしたちのために,主イエスはこの世のただ中にやって来られたからなのである。わたしたちがこの地上で互いに愛し合い、認め合う、一つの命へと結ばれて生きることを実現することを、あきらめることなく求め続けることが出来るために、主イエスは、この地上に生きる弟子達に、そしてその後に続く者達を背に負って、神に祈られるのである。たとえわたしたちの目の前にある現実が、どれほど争いが激しく、対立は深く、その裂け目を超えることが不可能であるかのように見えたとしても、その裂け目を超えて、なお進んでゆく力を、主イエスは約束され、そしてわたしたちを背負って、神に祈り求めて下さるのです。そしてこの主イエスの祈りは、今を生きるわたしたちのために続く祈りなのである。

[説教要旨]2015/05/10「キリストの愛に留まる」ヨハネ15:9-17

復活節第6主日 初めの日課  使徒言行録 10:44-48 第二の日課  ヨハネの手紙一 5:1-6 福音の日課  ヨハネによる福音書 15:9-17 本日の日課9節には「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた」つまり、父なる神が主イエスを愛されるということと、主イエスが私たちを愛されるということが、対等の価値をもつかのように記されている。しかし、この二つの事柄は決して等価値を持つということに私たちは違和感を持つ。父なる神が御子イエス・キリストを愛するとうことと、その主イエスが私たちを愛されるということは、同じ次元の事柄ではない。実に、私たちがそのような主イエスの愛の中にいるということは、決してあたりまえのことでも当然のことでもない。そうであるからこそ、それは恵みに満ちた言葉なのである。そして、それに続いて「わたしの愛にとどまりなさい」というキリストの掟を聞く。ここで「わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。」とあるからと言って、キリストの掟を守ることが、決して主イエスの愛は条件付の愛であるということではない。なぜなら主イエスの愛は条件付などではなく、無条件の、無制限の愛だからである。したがって、むしろここで「わたしの掟を守るなら、」とあることは、わたしたちが私たちの硬く閉ざした心の扉を開き、主イエスのその愛を受け止めるならば、ということなのである。 ヨハネ福音書において、今まさに十字架に向かおうとする主イエスが、弟子達に向かって、長い別れの言葉を述べる。その中で主イエスが「互いに愛し合いなさい」と語り、そして「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」語られる。その愛とはまさに主イエスがその十字架において示された愛、無条件で無制限の愛に他ならない。しかし私たちは自己中心的な愛から離れることの出来ない存在でしかない。けれども、同時に、私たちはそのような私たちのためにすら、主イエスはその命を献げて下さった。そのような愛が私たちに注がれていることを、この箇所は語る。 主イエスは弟子達に対して、ひいては私たちに対して、「もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない」と語られる。主イエスの友となるということは私たちがなにか人間以上の存在になるということではない。それは、わたしたちが喜びに満たされて日々を歩むことができるということに他なりません。それは、たとえどんなに小さく弱い者であったとしても、私たちが愛されるに値するかどうか、そのように強く大きい者であるかどうかに関わらず、キリストの友として既に私たちに注がれている無条件の愛を、私たちが受け入れることなのである。 キリストの言葉は、時を超えて現代の日本に生きる私たちのところにも届いている。私たちに迫ってくるこの世の力とは、ヨハネが闇と呼んだ、奪い取り、支配することを望む、欲望の誘惑である。この闇の力に抗い、神の愛によって渇きを癒され、喜びに満たされて生きるには、友のために生きるということが不可欠であることを主イエスは語られる。それはまさに主イエスご自身が歩まれた道、あの十字架に向かう道を私たちもまた歩むということに他ならない。しかし主イエスが歩まれたその道は今や、私たちにとってはもはや苦しみの道ではなく、神の愛が運ばれてくる道となっている。友のために、自分の命を用いてゆくこと、それこそが神の愛のうちに私たち自身が生きるということなのである。

[説教要旨]2015/05/03「キリストにつながって」ヨハネ15:1-8

「キリストにつながって」ヨハネ15:1-8 復活節第5主日 初めの日課 使徒言行録 8:26-40 第二の日課 ヨハネの手紙一 4:7-21 福音の日課 ヨハネによる福音書 15:1-8 本日から復活節の終わりまでは、復活節に新入信者を迎えた信仰者の群れがあらためてイエスの教えを受けとめるため、ヨハネ福音書のいわゆる「告別説教」が福音書の日課として続く。それはまた、神の霊が与えられ、教会が生み出されることとなる、聖霊降臨の出来事へと思いを向けることを私たちに呼び掛けている。 ヨハネ福音書全体のおよそ1/4にあたる分量が、最後の晩餐に関しての報告となっており、その大部分は主イエスのいわゆる告別説教が占めている。この告別説教では、まず前半で、主イエスがまもなく弟子達の前を去り、「父」のもとへと向かうこと、しかしそこで弟子達のための場所を備えられること、弟子達が主イエスの「いましめ」を守ること、主イエスが去った後、真理の霊・弁護者が使わされること、主イエスが残される平和は「世」が与えることのない平安であることが繰り返し語られる。それらは、弟子達を襲うこの世での苦難を予告しつつ、また一方では、その弟子達に与えられる、「この世ならぬ」喜びの約束となっている。そして本日の日課を含む、後半では、同じ主題が繰り返されながら、とりわけ、弟子達が主イエスにつながること、そして互いに愛し合うこと、これが主イエスのいましめであることが、特に印象的に語られることとなる。 本日の箇所では、信じる者一人一人が枝であり、それがすべて幹である主イエスにつながっている(共にいる)、ということが語られている。そしてまた、「(3)わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。」これは、聖霊が与えられることを通して、信仰の共同体の中に主イエスは共におられる、ということと深く結びついている。その意味で本日の箇所は、主イエスと共に同じ時、同じ空間を生きた弟子達に対してのみ意味があるのではなく、時と場所を隔ててなお、主イエスの語られた言葉によって、私たちは主イエスと結びつけられて、今生かされているということを伝えている。ヨハネ福音書では、主イエスは「わたしは〜である」という仕方で、繰り返しご自身について語られる。それは、今を生きる私たちが聖書を通して救い主である主イエスを知るということでもある。だから今聖書を通して、この「わたし」は、「わたしはまことのぶどうの木である」と語られる主イエスに出会う。そして、その主イエスは「わたしにつながっていなさい」と呼び掛けられる。この「わたし」は今や、主イエスにつながり、の命を生きるものとなる。それは「わたしただ一人」ではなく、共に主イエスにつらなる「わたしたち」へと変えられてゆく。まさにその意味で、主イエスの命を生きる私は、今や孤独な存在では無く、主イエスと共に新しい命を生きるわたしたちなのである。主イエスの言葉によって呼び掛けられる時、私たちは、主イエスによって与えられる、新しい命に出会うのである。 自分が何のために生きているのか、何をしたいのかわからない。この世に生きる私たちは皆、そのような出口の見えない苦悩にぶつかることがある。しかし、キリストの言葉をわたしへと呼び掛けられたものとして、キリストにつながって生きる時、このわたしは、孤独のまま立ち枯れてゆくだけの存在なのではないこと、わたしはわたしたちとなり、そのわたしたちには主イエスの古びることの無い命が与えられていることに気付くのである。

2015年8月1日土曜日

週日の集会は8/5-9/24までお休みいたします[08/05-09/24]

週日の集会(聖書の学び 水曜11-12時、キリスト教入門・小教理問答の学び 木曜11-12時)は、8/5(水)-9/24(木)はお休みいたします。
9/30(水)より再開いたします。

2015年7月14日火曜日

2015年ルーテル三鷹教会平和の主日[08/02]

ルーテル三鷹教会では8月には平和を主題とした礼拝を行います。
日本福音ルーテル教会平和の主日である8/2には関田寛雄先生を説教者にお迎えして共に礼拝に与ります。関田先生ご自身の戦争体験を踏まえつつ、聖書から平和への希望を聴いてゆきたいと思います。ご関心のある方は、教会員以外の方、クリスチャンではない方でも、どなたでもご参加頂けます。皆様のお越しをお待ちしております。

2015年8月2日(日)10時半より
ルーテル平和の主日
説教「平和を創る人の幸い」
説教者 関田寛雄牧師(日本基督教団牧師・青山学院大学名誉教授)


ルター小教理問答による講解説教と学び第2回「使徒信条」[07/26]

ルター「小教理問答」による講解説教

2015年7月26日(日)
「使徒信条」江藤直純先生(ルーテル学院大学学長)
[テキスト]
マルティン・ルター著「エンキリディオン小教理問答」
(ルター研究所訳、リトン2014)

 2017年はルターの始めた宗教改革から500年、そしてルーテル三鷹教会創立30周年となる節目の年です。この機会に向けて、3回にわたって小教理問答による「講解説教」を行います(通常の礼拝よりも式文を簡素化して、説教を中心とした礼拝とします)。また午後は軽食をとりつつ、質問やディスカッションの時間を1時間ほど予定しています。

 第2回は「使徒信条」が主題となります。ルターと宗教改革について学びたい方であれば、教会員以外の方、クリスチャンではない方、どなたでもご参加頂けます。皆様お気軽にご参加ください