2014年5月10日土曜日

[説教要旨]2014/04/27「平和があるように」ヨハネ20:19-31

復活節第2主日


初めの日課 使徒言行録 2:14a、22-32 【新約・ 215頁】
第二の日課 ペトロの手紙1 1:3-9 【新約・ 428頁】
福音の日課 ヨハネ 20:19-31 【新約・ 210頁】


本日の福音書の前半では家の中に集まっていた弟子たちの前に、復活の主イエスが姿を現されたことが述べられている。主イエスの墓が空であることを既に報告されていたはずだが、彼らはまだなお、恐れと不安の中に閉じ込められていた。さらに弟子たち同士の間でも疑心暗鬼になり、同じ部屋の中に隠れていても、互いを監視するような思いでいたかもしれない。その彼らの只中に復活のキリストは現れ、「あなた方に平和があるように」と呼びかける。それは赦しと和解の言葉であり、祝福と希望の言葉であった。
さらに復活の主イエスは弟子たちに「息を吹きかけ」る。息とは、聖書では「霊」とも訳される言葉であり、創世記で天地の創造に際して満ちていた神の力、またエゼキエル書で枯れた骨を生きたものにする神の力として語られている。主イエスは「息」を吹きかけて「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」と語られる。それは、恐れと不安に閉じ込められ、希望と平和を失っていた弟子たちの内に、主イエスは「互いを赦す力」「和解と平和をもたらす力」を創造されたということであった。「赦す」とは解放する、帳消しにするという意味でもあり、一方「赦さない」というのは、つかんではなさない、という意味の言葉でもある。主イエスが新たに一人一人の心の中に創られる力は、私たちがつかんで離すことができないものを手放し、代わって、和解と平和、赦しをもたらす力であった。弟子たちは恐れと不安に閉じ込められていたが、それは同時に、彼らが自分達の適わなかった思いをつかんではなさなかったがゆえに、そこから踏み出すことができなかったとも言える。そこに主イエスの息吹が与えられた時、彼らは「新しい命」として生きることが出来たのである。
本日の後半には、この出来事の際に居合わせなかったトマスが登場する。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」というトマスの言葉は、今の自分に平和が赦しが訪れることなどありえないと訴えているかのようである。自分自身の苦しみと痛みを訴えることによって、ますます復活の喜びを拒み、斥けようとする、そんな人間の有様を、このトマスは象徴するかのようである。ところが、そのようなトマスの前にも、復活の主は現れ、呼びかけられる。
この地上で生きる私たちもまた、自分自身の現実に絶望し、それを変えることができない無力さをただ嘆くばかりである。この現実を変える力などどこにもあり得るはずがない。あるならば見せてみよ、そのような心の叫びを私達の誰もが抱えている。しかし、そのような深い疑いを持つ私たちのもとにもまた、主イエスは呼びかけられる。鍵のかかった部屋に隠れていた弟子達の元へ、主イエスの復活を信じることの出来なかったトマスの元へ、主イエスは訪れられ、平和を創り出す力、赦しをもたらす力を与えられたのだった。
周りで起こる様々な変化に私たちは戸惑い、失われてしまったものを嘆き悲しむことから抜け出せずにいることがある。けれども、復活の主イエスは、私たちのもとを訪れ、呼び掛け、その息・聖霊によって、私たちに新しい命と主にある平和を与えて下さっているのである。

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