2014年5月4日日曜日

[説教要旨]2014/04/20「なぜ泣いているのか」ヨハネ20:1−18

主の復活

初めの日課 エレミヤ 31:1-6 【旧約・ 1234頁】
第二の日課 使徒言行録 10:34-43 【新約・ 233頁】
福音の日課 ヨハネ 20:1-18 【新約・209頁】

本日はイースター・復活祭の日曜を共に祝っている。キリスト教会は、この主イエスの復活の出来事をこそ、出発点として、全ての源泉としている。

本日のヨハネ福音書の物語の流れを振り返ると、「しかし」という表現が頻繁に出てくることに気付く。まさに復活の出来事は「しかし」の連続である。その意味で「復活」とは私たち人間の価値観に対する、究極的な「しかし」すなわち「逆接」の出来事である。私たちは現実生活の中では「〜だから、こうなる」という因果関係の世界の中で生きるしかない存在である。それに対して「復活」の出来事は、私たちの前に「しかし〜である」という世界を開く出来事なのである。

墓の外に立つマリヤが求めていたのは、主イエスの亡骸であった。しかし、マリヤはそれを見つけ出すことができず、ただ泣くばかりであった。たしかに、亡骸を探すのであれば、マリヤの体験、墓は空であったという体験は、自らのもとにあるはずのものが取り去られた、自らの思いが叶わなかった、という体験でしかない。そして、彼女のこの思いは決して叶うことはなかった。なぜならば彼女は、主イエスの亡骸ではなく、生ける主に出会ったからである。さらに彼女が復活の主にであった時も、主イエスに触れることを禁じられます。言うならば、ここでも彼女は思い通りに振る舞うことは出来なかった。しかし、もはやマリヤは泣いてはいなかった。彼女は弟子達のところへ向かい、「わたしは主をみました」と告げ、ヨハネ福音書の中での、復活の主イエスの最初の証言者となった。

マリアを、その涙の中から立ち上がらせたのは、全ての事が彼女の思い通りに進んだことで満足したからではなかった。むしろ彼女の願いはことごとく打ち消されている。「しかし」、マリヤは主の復活の最初の証言者となる。悲嘆の中に沈み続けるマリヤは、いわば「〜だから、こうなる」という世界の中で、「なぜこんなことが」を問い続けていた。ところが復活の主イエスは彼女に「しかし」という世界を開く。主イエスの亡骸は無い。しかし、主イエスは生きておられる。私の思いは、全て叶わない。しかし、私はもはや涙を流すことはない。この「しかし」の世界に生きることを、マリヤは復活の主イエスとの出会いによって体験したのだった。

私たちは、この現実の生活の中で、常に自分の無力さに絶望的な気持ちをもって、向かい合わされている。この目の前にある困難を解決する力など自分には無い。だから私はただ泣くしかない。自分の望むことは何一つかなえられない。だから、私はただ悲しむしかない。それが私たちの生きている世界の有り様である。「しかし」そうした私たちの絶望的な思いすらも、イエスの復活の出来事は突き崩す。主イエスの復活は「〜だから〜こうなる」という私たちの世界の中では理解しえない出来事である。しかし、私たちの外側にある事柄だからこそ、その出来事によって、私たちが直面するあらゆる行き詰まりと絶望は崩されるのである。

私たちが自分の力によって、希望と未来はどこにあるのかを見出すことは出来ないならば、マリヤのように、ただ泣くしかない。しかし、復活のキリストに出会う時、自力では希望も未来も見出せなかったとしても、しかし「私は主をみました」と喜び、その喜びを伝え合い、分かちあうことが出来るのである。

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