2014年5月4日日曜日

[説教要旨]2014/03/23「命の泉」ヨハネ4:5-42

四旬節第3主日

初めの日課 出エジプト記 17:1-7 【旧約・ 122頁】
第二の日課 ローマ 5:1-11 【新約・ 279頁】
福音の日課 ヨハネ 4:5-42 【新約・ 169頁】

教会は主イエスの受難と復活を憶える四旬節を過ごしている。この四旬節の期間に私たちが向き合うべき自らの罪とは何なのだろうか。振り返るならば、私たちの生きるこの世界には、あまりにも多くの隔ての壁が存在している。しかもその壁は、私たちが自らの聖域を守りたいという思い、また、そのためにこれこそが正しいやり方であるという思いから生み出されている。だとするならば、私たちが聖域と正しさを求める思いそのものが、私たちを引き裂き、憎悪を煽る罪を作り出しているとすら言えるのではないか。

本日の福音書は、ヨハネによる福音書から主イエスとサマリアの女性、そしてサマリアの人々との出会いについて取り上げられている。ユダヤとサマリアは同じルーツを持ちながらも、歴史の変遷の中で分裂し、互いに自分たちの神殿を「唯一の聖なる場所」として譲らず互いに報復を繰り返したため、対立と憎悪を深めていた。そのような歴史を背景にしつつ、主イエスとその一行がサマリアの地を訪れるこの記事は、他の福音書の中でもひときわ目立つ物語であると言える。それは、民族と宗教を含めた、あらゆる人と人との対立、隔ての壁を主イエスの言葉が乗り越えてゆく物語である。

物語の発端では、ヨハネ福音書におけるその他の多くの物語と同じように、見えない事柄について語る主イエスと、見える事柄から語るサマリアの女性との対話はかみ合うことがない。けれども26節「それは、あなたと話をしてるこのわたしである」という主イエスの言葉において、いずれ渇いてゆく「見える世界」と、渇くことのない「見えない世界」を結びつけるものは主イエスご自身であることが語れる時、一つの焦点を結ぶこととなる。この焦点が合い始める切っ掛けを二人の対話を遡って探すならば、15節「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください」とこの女性が主イエスに求めたところから始まっていると言える。それは水を求める主客が逆転し、サマリアの女性が、渇くことのない水は自らの中にはないということ、すなわち、現に今自分が有しているものではなく、自らの中には無いものによってこそ、自らは生かされる存在であることを知り始めた瞬間であった。主イエスは語られる。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」主イエスが与えられる水、つまり私たちの外から与えられる生きた水だけが、私たちのうちに命の泉をもたらすことを聖書は語る。

荒野のような現代社会の中を生きる私たちは、自らの魂の渇きを癒すものを常に求め、そしてそれゆえに自らの内にある正しさを守り続けようとする。しかしそれはむしろ、互いに裁き合い、傷つけ合うことしか生み出さず、ますます私たちの渇きを増すだけである。むしろ、私たちの内には無い、主イエスが与えて下さるその言葉だけが、私たちの渇きを真に癒すことができるのである。なぜならば、主イエスの言葉は、私たちの罪を贖うために、その十字架で分け与えられた、主イエスの命を私たちに与えるものだからである。主イエスの命の言葉は私たちの内で命の泉となり、私たちを新たに生きるものへとする、唯一の力なのである。

0 件のコメント: