2014年3月8日土曜日

[説教要旨]2014/03/02「神の心に適う者」マタイ17:1-9

変容主日

初めの日課 出エジプト記 24:12-18 【旧約・ 134頁】
第二の日課 2ペトロ 1:16-21 【新約・ 437頁】
福音の日課 マタイ 17:1-9 【新約・ 32頁】

教会の暦では本日は変容主日であり、顕現節は終わり、今週の水曜日から四旬節に入る。降誕節と顕現節の主題は光であったが、本日の福音書ではまさに主イエスが光り輝いたことが取り上げられる。主イエスの受難を憶える、悲惨で陰鬱な印象を受ける四旬節の直前に、主イエスが光り輝いたという、いわば栄光の出来事を憶えることの意味はどこにあるのだろうか。
マタイ福音書17:9でペトロ達は「今見たことを誰にも話してはならない」と命じられる。この「見たこと」という語は、ギリシア語に翻訳された旧約聖書での出エジプト記において、モーセが神と出会う、燃える柴の箇所で、「この不思議な光景を見届けよう」と語る時の「光景」という語として用いられている。その意味で、ペトロ達が「見たもの」とは神が現れ、働いた出来事であったことを示している。それはまさに、神の救いの業が、この地上で主イエスにおいて実現するということは、人間の理解を超えた、想像を絶する事柄であることを、この物語は示している。
この箇所にいたるまでの福音書の物語では、主イエスは人々に福音を伝え、そして癒し、命を救う業を行ってこられた。しかし本日の日課では主イエス自身が光り輝く。つまり神の業が、主イエスの体を通して実現することを示すものであった。主イエスの体を通して実現する、人知を超えた神の救いの業とは、主イエスの十字架とその死から復活された出来事に他ならない。本日の箇所において主イエスが光り輝くのは、この先に主イエスを待ち受ける、十字架と復活の出来事が放つ光の先取りに他ならない。
この後十字架の苦難の道を歩み始めることとなる主イエスに、光り輝く雲の中から神の声が響く。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」。実に、主イエスがこの地上の世界へと届けられた光、そして示されたその栄光とは、伝統と権威の高みに留まり、手にした者を失うことなく、譲ることなく、保持し続けることではなかった。むしろ、その身をも用いて、世に生きる人々の苦しみを担い、喜びと恵みを分かち合うということこそが、主イエスがもたらされた光であり、主イエスご自身の栄光に他ならなかった。主イエスによって示される神の栄光と威光とは、権威の高みではなく、むしろ低きへと降り、苦難を共に担い、命を分かち合う姿を通してこそ現れるのである。
さらに、光り輝く主イエスは、そのままの姿で山に留まることはされず、再び人々のところへと戻られ、そして十字架への道を進んでゆかれる。それは、主イエスが私たち人から離れたところで、聖なる姿を保つためではなく、私たちのさまざまな苦しみと嘆きを共に担われるために、そしてその全てをもって十字架へと進まれるために、この世に来られたことを物語る。また山から下りるに際して、主イエスはペトロらに「起きなさい。恐れることはない」と語りかける。主イエスの十字架への道は、苦難の道であると同時に、新しい永遠の命への道、救いと喜びへの道であることを、御自分に従う者達に示されたのだった。
私たちは、まもなく主の受難とそして復活とに備える四旬節を迎える。私たち自身の恐れと不安を、主イエスがその受難と復活によって打ち破られたこと、主の栄光は、苦難と喜びとを分かち合う中にこそ現れることを覚え、この時を過ごしてゆきたい。

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