2014年3月22日土曜日

[説教要旨]2014/03/09「荒れ野に導かれて」マタイ4:1-11

四旬節第1主日

初めの日課 創世記 2:15-17、3:1-7 【旧約・ 3頁】
第二の日課 ローマ 5:12-19 【新約・ 280頁】
福音の日課 マタイ 4:1-11 【新約・ 4頁】

 先週の水曜日からイースターまで四旬節が始まった。その最初の主日礼拝には主イエスの荒れ野での試練と誘惑の箇所が選ばれている。この40という数字は旧約聖書で度々荒野の記事とともに登場する。その意味で「荒野」を旅する40の時とは、危機に瀕し、将来に不安と恐れを抱えたまま彷徨う場所と時を象徴していると言える。現代の日本社会に生きる私たちは、常に不安と怖れの中で生きているとも言える。今年もまた3月11日が巡ってくる時、あの東日本大震災から既に3年の月日が経ちつつも、外見上の復興とは裏腹に、多くの傷と危機が私たちの生活の中に存在し続けていることに愕然とする。しかし私たちはそうした傷や危機の中で歩むことを、自分から遠く離れた一部の地域と人々に、もう過ぎ去った出来事として押しやることで、自らの不安と怖れから逃れようとしている。そのような中で、この四旬節、私たちの生活の日々に主イエスの荒れ野での時が結び付けられる。
 本日の日課で主イエスは「“霊”に導かれて荒れ野に行かれた」とある。旧約においても、むしろ主なる神が預言者あるいは民を荒れ野へと導く。荒れ野での危機の時は、思い描いていたはずの、安定と成長が約束された未来とは相容れないものであっただろう。エジプトでの奴隷の生活から脱出した後、荒れ野での生活に不満をもったイスラエルの民がモーセを非難する様子はまさに、大きな危機が過ぎ去った後、なによりもまず自らが満たされることだけを求めてしまう、私たち人間の姿を浮き彫りにする。しかし荒野における試練の時とは、決して無意味な時ではなかった。イスラエルの民にとっての荒野での40年とは、エジプトの肉鍋を欲し、金の子牛を拝むことで安心を得ようとした者達が神の民となるために、神の救いの業の実現において不可欠なものであった。
 主イエスにおいてもまた、荒野での試練は、神の救いの業において不可欠なものとして描かれる。ヨルダン川での洗礼からこの荒れ野の試練が続いているということは、神の子が救いを宣べ伝え始めるにあたって、この荒野の時がなければならかったことを示している。本日の日課で登場する誘惑者は、主イエスに対する誘惑でありながら、同時に、今を生きる私たちにとっての誘惑・試練でもある。私たちの命は何によって支えられるのか。私たちの未来は何によって守られるのか。その問いはまさに現代を生きる私たち自身の問いでもある。一人の人としてこの地上を歩まれる主イエスは、そうした誘惑に対して徹底して聖書の言葉を持って応え、力によって自らの安定と反映を手にすることではなく、むしろ人としての自らの弱さに留まられる姿を示される。そしてやがて、この弱さの極みある、十字架へと主イエスは向かわれる。弱さの極みであるはずのこの十字架は、この地上のあらゆる力を圧倒する救いの出来事、新しい命を私たちもたらす出来事となった。
 主イエスの荒れ野での40日とその誘惑は、現代の荒れ野の中で様々な試みの中で生きる私たちに、弱さの中に留まる事の意味を示す。私たちに真の自由と解放を与えるのは、力による安定でも成功でもなく、この弱さの中で私たちを待つ主イエスの十字架に他ならない。私たちが自らの不安と怖れを自らのものとして、自らの荒れ野を歩む時、自由と解放に生きる新しい命を与える主イエスの十字架の出来事は、私たちに最も近づくのである。

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