2013年8月7日水曜日

[説教要旨]2013/08/04「平和―神の前の豊かさ」ルカ12:13-21

聖霊降臨後第11主日・平和の主日

初めの日課 コヘレト 1:2、12-14、2:18-23 【旧約・ 1034頁】
第二の日課 コロサイ 3:1-11 【新約・ 371頁】
福音の日課 ルカ 12:13-21 【新約・ 131頁】

 本日、8月第1日曜はルーテル平和主日である。68年前に多くの犠牲者を生み出した戦争、とくにヒロシマとナガサキの二つの原子爆弾の出来事は、日々風化しつつあるようにすら思える。しかし2011年3月11日の東日本大震災以来、真の平和とは何なのかということが問われている。解決されない放射能の問題、復興の名の下に切り捨てられて行く社会的弱者、そうした現実を前に、多くの人が、深い失望と絶望に、そして不安と危機感とにとらわれている。平和について考える時、私たちを本当の意味で満たすものは何なのかを問わなければならない。ルカによる福音書では、「財産」「富」に関する教えが度々取り上げられる。それは、奪い合いではない、真の豊かさとは何かを示す。この主イエスの言葉から「真の平和とは何か」を聞き取ってゆきたい。
 15節で、主イエスの「人の命は財産によってどうすることもできないからである」という言葉に続いて、一人の金持ちのたとえが語られる。17節以下の金持ちの独白は、新共同訳では気付きにくいが、これをギリシア語もしくはその他の言語で読むと、そのほとんどが「私」が主語となっていることに気付く。しかもそこでは「私の」作物、「私の」倉、「私の」穀物と財産、と何度も「私の」ということが強調されている。そしてついには「自分(=「私の」魂)に言ってやるのだ」と語る。いわばこの男はあらゆるものを「私」が独占することを追求している。客観的に見るならば、この人物は決して愚かな人物ではない。むしろ有能な優れた人物であり、彼はその自分の持てる能力によって、あらゆるものを独占し、幸福を追い求めようとしていると言える。しかし、この金持ちのそうした試みに対して、「愚かな者よ。今夜、お前の命は取り上げられる」と神は語られる。この有能な人物が、どれほどその能力を駆使して地上の富の独占を実現したとしても、彼は自分の命を自分のものとすることは出来なかった。実のところ、ただ命の創造主である神から命を与えられ、生かされている存在に過ぎない全ての人間は、誰一人自分自身の命をしまい込み、独占することなど出来ないのである。
 この譬えを語られる主イエスご自身は、十字架を通して、そのご自身の命すらも私たちの救いのために分かち合われた。その十字架の主イエスに従う弟子として、神の前に豊かであること、それは私たちが、奪い合い、独占するのではない生のあり方、すなわち真の平和を求めることに他ならない。
 平和の実現を求め、自らの持てるものを分かち合っていくことは、時として、全く愚かな振る舞いであるかのように語られる。なぜそのような損を引き受ける必要があるのか。そのようなことは自分達の知ったことではない。それは後の時代の人間にまかればよい。むしろ今はなぜ強く、豊かになることを求めないのか。そのように非難されることがある。しかし、主イエスに従う私達は、そうではない神の前の豊かさとしての「真の平和」があることを知っているのである。それは奪い取り、独占することで、自らを満たそうとする姿の対局にある。喜びも痛みも分かち合うことの中にこそ、真の神の前の豊かさがあることを私達は思い起こすのである。私たちを神の慈しみが満たし、神の平和によって今日が守られることを憶えつつ、この平和を考える8月の日々を共に歩んでゆきたい。

0 件のコメント: