2013年8月1日木曜日

[説教要旨]2013/07/28「祈るときには」ルカ11:1-13

聖霊降臨後第10主日

初めの日課 創世記 18:20-32 【旧約・ 24頁】
第二の日課 コロサイ 2:6-15 【新約・ 370頁】
福音の日課 ルカ 11:1-13 【新約・ 127頁】

 「祈り」そのものは、おそらくあらゆる時代の宗教の中で普遍的に行われる宗教行為であろう。自分ではどうにもならないこと、どうにもならない願いを、人は、人ならざるものに託す。そうした表面的な形だけを見るならば、キリスト教でなされる祈りも同じ行為であると言える。ならば教会で行われる「祈り」と、「呪術」「魔術」との違いは無いのだろうか。私達のなす「祈り」とは、自分ではどうにもならないことを、人ならざるものの力を利用して実現しようとすることでしかないのだろうか。
 本日の福音書では、まず最初に「主の祈り」として私たちが毎週の礼拝の中で唱えている祈りについて描かれ、それに続いて、求め続けることと、神はそれに応えられることについての主イエスの教えが語られる。他の福音書と異なり、ルカではこの2つが続いて述べられている。この主の祈りと、求め続けることの教えとは、ルカにおいてどのような意味で結びついているのだろうか。
 マタイ福音書と異なりルカの「主の祈り」においては、まずはじめに主イエスご自身が祈っておられる点が特徴的である。いわば弟子が祈りの言葉を得るよりも前に、まず主イエスの祈りがあることが示されている。私達の祈りは、まずなによりも主イエスご自身の祈りによって導き出されていることを、本日の福音書は語る。そして主イエスが弟子たちに与えられた祈りの言葉は、摩訶不思議な意味不明の呪文の言葉ではなく、むしろ、私達の日常に深く根付いた言語であった。祈りの言葉は、決して、人に理解出来ないような、特殊な言語ではなく、私達が生きるこの地上の命の中に根付いた言語なのである。しかし私達人間の言語が神を思い通りに動かすことなど出来はしない。主イエスが教えられる祈りは、命の造り主である神を、私達の思い通りに動かすためのもの呪文なのではない。むしろ全く逆に、私達が、神の愛と恵みによって満たされ、神の力のもとで動かされることを、祈り求めるものなのである。
 主の祈りはさらに、私達の地上での生活に結びつく事柄を祈り願う。しかし、それはただ私だけが満たされ、私だけが正しい者とされ、ただ私だけが救われるのではなく、「私達」の間に、神の愛と恵みが満ちあふれ、神の支配が働くこと、そしてそのことによって、私達が、私達の生きるこの地上が変えられて行くことを祈り願う。そのように読んで行くとき、後半の「求め続けること」は決して「私」一人のために求めるのではなく、「私達」の間に、神の愛による支配が実現することを祈り求め続けることを示しているとも言えるのである。そしてそれは、求め「続ける」こと、つまり、神の愛が満ちあふれること、それによって、私達のそのあり様が帰られて行くことを祈り続けることが決して無為・無駄で終わることはないことを約束されているのである。
 聖書が語る神の国とは、神の愛が支配する領域であり、その神の愛は、生と死との境目を超えてあらゆる領域へと及ぶ力であり、永遠の命への希望をもたらす力である。主イエス・キリストの十字架と復活は、私たちを満たし、変えて行く、神の愛の力の証しに他ならない。十字架によって示される神の愛は、争いと憎しみを生み出そうとするあらゆるこの世の力をはねのけ、平和と公正、赦しと和解をつくり出すものとして、私たちと私達の世界を新たに創り変えてゆく力なのである。

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