2013年7月17日水曜日

[説教要旨]2013 /07/14「わたしの隣人とは」ルカ10:25-37

聖霊降臨後第8主日

初めの日課 申命記 30:9-14 【旧約・ 329頁】
第二の日課 コロサイ 1:1-14 【新約・ 368頁】
福音の日課 ルカ 10:25-37 【新約・ 126頁】

 本日の箇所は律法の専門家と主イエスとの対話である前半25-28節と、「善きサマリア人」の譬えを含む後半29-37節の二つの部分から成っている。前半の対話では、主イエスの知識を試そうと、律法の専門家が「何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と問いかけるが、逆に主イエスによって質問を投げかえされる。そこで「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。また隣人を自分のように愛しなさい」と彼が答えると、主イエスから「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば永遠の命が得られる」と言葉を返される。主イエスを試そうとしたはずの律法の専門家が逆に試され、しかもさらにはそれを「実行」するように命じられる。つまりそれは彼がその教えを実践はしていないことを示唆するものであった。律法の専門家は食い下がり「わたしの隣人とはだれですか」と問い、それに応える形で主イエスは譬え話を語られる。
 この文脈を考慮すると、本日の譬え話は「永遠の命を受け継ぐ」ということは何かということ、また「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛する」とはどういうことかということ、そして「わたしの隣人とはだれか」という問いを結びつけていると言える。
 永遠の命を受け継ぐということは、決して不老不死のごとく今の私たちの状態がそのまま延長されていくことではない。そうではなく、私たちが神の国にふさわしいものとしての新しい命を創造され、その命を生きることを意味している。本日の前半の箇所はその新しく造られた命を生きることと、「神を愛する」ということは密接なつながりがあることを語る。私たちが神の国にふさわしいものとして新たに創造されるということ、それは私たちが地上の過ぎゆくいかなるものにも優って、私たちの命の源、私たちの喜びと希望の源である神を愛し、求めることなのである。
 そして神を愛し、求めるということは、他者との関係の中においてこそ実現することを、続く譬え話は語る。傷ついた旅人を見捨てていった者たちにとっては、自分の世界を守り、そこに留まることが神の国を求めることであった。しかし最後に登場したサマリア人は、民族的・政治的対立、自分自身の都合、そういったものを全て超え出て、目の前にいる傷ついた他者との間に関わろうとする。その姿こそが、永遠の命を受け継ぎ、永遠の命を生きる者の姿として私たちに示される。
 永遠の命を受け継ぐ者として、自分の世界を超えた神の愛へと開かれ、他者のために生きることを、私達は主イエスから求められる。それは何よりも、十字架の死によってご自分の命の全てを他者のために投げ出された、主イエス・キリストの姿を私たちが追い求め、そのみ後に従って行くことでもある。復活によって、十字架の先には永遠の命があることを、み後に従う私たちに主イエスは示された。
 キリストの教会がこの社会にあってその使命を果たすということは、他者のために生きる群れとなっていくことに他ならない。それはこの世の価値観から見るならば、何の利益にもならない、愚かな行為でしかない。しかし、あの主イエスの十字架がそうであったように、この世の価値観では計ることのできないような、大いなる恵み、永遠の命が約束されているのである。永遠の命へと向かう主イエスのみ後に従って歩みたい。

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