2013年7月25日木曜日

[説教要旨]2013/07/21「しかし必要なことは」ルカ10:38-42

聖霊降臨後第9主日

初めの日課 創世記 18:1-10a 【旧約・ 23頁】
第二の日課 コロサイ 1:15-28 【新約・ 368頁】
福音の日課 ルカ 10:38-42 【新約・ 127頁】

 本日の福音書を読む時、なぜ主イエスは、マルタの献身的な奉仕よりも、マリアの態度の方を評価したのかという疑問が浮かぶ。しかし主イエスは、本当にマルタの行為を価値の無いものと見なし、マリアを良しとしたのだろうか。先週の日課では、律法の専門家である男性に主イエスは「行って、実行するように」命じられた。一方で本日の箇所では、もてなしのために立ち働く女性に座って聞くように命じられる。確かにこの二つの戒めは矛盾するように思われる。しかし実は、ここではそのどちらもが主イエスに従う者、あるいは群れにとって重要な態度であり、むしろその双方をつなぐための根源を問いかけていると言える。
 マルタとマリアの二人の振る舞いは、その間に優劣を付けるべきものというよりも、主イエスに従う教会の様々な姿、福音のメッセージを聞き、そのために奉仕する教会の働きを象徴しているといえる。したがってここで問題となっていることは、奉仕をするべきか、そうではないのか、ということではない。そうではなく、もっとも重要なことはもっと根源的な「ただ一つ」のことである。すなわち、あらゆる奉仕の主体は主イエスご自身であり、消え去ることも取り去さられることもなく残るものは、主イエスの言葉だけだ、ということなのである。本日の箇所で問題となっているのは、二人の姉妹の行為の優劣ではない。むしろここで対比されているのは、全ての奉仕の主体と根源は「わたし」なのか、それとも「キリスト」なのか、ということに他ならない。
 主イエスではなく、行為する者自身がその奉仕の働きの中心にある時、私たちは自分が為す業が、計画通りに完成し、成果や結果を上げることを求める。しかしそうした期待は、たとえ一時的にはうまくいったとしても、遠くない将来には、必ず行き詰まることになることを私たちは知っている。なぜならば、私達が一時たとえどれほどのことを成し遂げたとしても、やがてそれはやがて古び、消え去るものでしかないことを知っているからである。そうした奉仕の一つ一つの本来の主体は、私たちではなく主イエスご自身なのである。そして同時に、それを完成させられるのもまた、私達ではなく、主イエスご自身なのである。だからこそ、不十分かつ未完で終わらざるを得ない業の全てを、私達は主イエスに委ねることが出来るのである。そして主イエスがそれらを完成して下さる時、それは決して古びることも消え去ることの無い、喜びを伝える業となる。
 奉仕の主体としてその完成を急ぐマルタは苛立ちを訴える。しかしマルタに主イエスは親しく語りかける。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。」その言葉は、決してマルタを断罪するものではなかった。むしろマルタの心を癒し、満たし、彼女の為す業の全てを主イエスが引き受けられるための言葉であった。
 主イエスの言葉に聞き従うということを通してのみ、私たちは主イエスに結ばれ、主イエスによって私達が成し遂げられなかったこと、報いられなかったことその全てが完成され満たされる。そして、それこそが、私たちにとって必要なただ一つのことなのである。

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