2013年6月7日金曜日

[説教要旨]20131/06/02「命の言葉を受ける」ルカ7:1-10

聖霊降臨後第2主日

初めの日課 列王記上 8:22-23、41-43 【新約・ 541頁】
第二の日課 ガラテヤ 1:1-12 【新約・ 342頁】
福音の日課 ルカ 7:1-10 【新約・ 114頁】

本日から聖卓の布の色が緑に代わった。待降節にいたるまで、主イエスの教えを聖書から聞くことを通して、私たちの信仰生活の成長と成熟を求めてゆく季節を、歩んでゆくこととなる。
本日ルカによる福音書から、主イエスのガリラヤ宣教の中からのエピソードとなっている。冒頭には「イエスは、民衆にこれらの言葉をすべて話し終えてから、カファルナウムに入られた」とある。「これらの言葉」というのは、直接には6章の終わりまでで語られてきた主イエスの「平地の説教」のことを指す。注意して読むならば、ルカによる福音書「平地の説教」から「百人隊長の僕の癒し」以下の流れは、この後の8章で繰り返される「種まきのたとえ」、「イエスの母、兄弟であること(弟子であるこちの教え)」以下の流れと対の関係があることに気付かされる。つまり、「種まきの譬え」で語られるその「種」とは、それに先立つ主イエスの「平地の説教」であり、そして「種を受け入れるもの」は、「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」(8:21)と主イエスが語られた、その一つの例としてこの百人隊長の出来事が挙げられていると考えられる。
新約に登場する百人隊長とは、ローマ軍の制度の中の一身分で、50-100人前後の歩兵の指揮をとった下士官であった。ここで登場する百人隊長というのが、ローマ軍そのものであったのか、あるいはガリラヤの領主であり、ローマ好きで知られたヘロデ・アンティパスがローマ軍を模して導入した軍隊に属するものであったかは明記されていない。いずれにせよ、この人自身はユダヤ人ではなかった。舞台となるカファルナウムという町は、そうしたユダヤ人以外の人々がおおくすむ、大きな商業都市であった。百人隊長は、この雑多で大きな町の中では、それなりの名士であったと思われる。したがって百人隊長という自分の経歴や能力、権力を駆使して、主イエスとの出会いを一刻も早く急かさせることもできたはずなのに、そうすることなく、ただ主イエスの言葉だけが届くことを待ち続けようとする。
しかし結果として、百人隊長は、その言葉を通して主イエスに出会う。癒しの出来事は、どれほどのキャリアと能力を持ってしても乗り越える事の出来ない困難と不安の中にある者が、主イエスの言葉を通じて命の希望に出会う出来事であった。今、こうして現代に生きる私たちの歩みを振り返るならば、百人隊長と同じく、私達は主イエスに直接目の前で出会うことは出来ない。しかし、主イエスの言葉を通して私たちは、主イエスに出会うのである。そこでは私たちの経歴や能力は問題とはならない。ただ主イエスの言葉が私達へと届けられることによって、私達は主イエスと出会い、私達のうちに命が与えられるのである。
私達ははるか遠くに、主イエスと再び出会う実りの時、神の国の実現の時を思い浮かべながら、今の時を歩むしかない。しかし私達には主イエスの言葉が残されている。主イエスの言葉は、私達のうちに新しい命を与え、さらにその命を育み、成長させる力なのである。
これから約半年にわたって続く、聖霊降臨後の季節、主イエスの言葉に聞き従い、命と希望に満たされることを祈りつつ、共に歩んでゆきたい。

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