2013年6月15日土曜日

[説教要旨]2013/06/09「もう泣かなくともよい」ルカ7:11-17

聖霊降臨後第3主日

初めの日課 列王記上 17:17-24 【新約・ 562頁】
第二の日課 ガラテヤ 1:11-24 【新約・ 342頁】
福音の日課 ルカ 7:11-17 【新約・ 115頁】

 本日の始めの日課である旧約列王記上では、偉大な預言者の一人であるエリヤが、命の危機にあるやもめとその家族に神の言葉を告げ救い出す。それは、私達が危機の中にある時、神の言葉は、私達を死から命へとその歩みをむき直させる力を持つことを物語る。聖書が伝えるそのような神の言葉の力の理解の先に、福音書の主イエスは立っておられる。
 本日の福音書は先週に引き続いてルカによる福音書の7章から取り上げられ、主イエスがガリラヤ地方での様々な驚くべき業を行われたことが報告されている。これらは7:18以下で洗礼者ヨハネへの弟子たちに対する返答「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」に結実してゆく。これはまさに主イエスこそが「来るべき方」であることの宣言に他ならなかった。さらにこれらのことは4:16以下で、故郷ナザレの会堂で読み上げられた、預言書イザヤ書のことば「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」と一致することにに気付かされる。つまり今この物語の中で語られているイエスこそが、私達に自由と解放を与え、主の恵みの時を告げる「来るべき方」であることを伝えるのである。
 本日の福音書で主イエスは、カファルナウムに続いてナインの町で、息子を失って悲嘆の中に沈む一人のやもめに出会う。13節で「主はこの母親をみて、憐れに思い」と書かれているが、「憐れに思い」とある言葉は「はらわたが突き動かされる」という表現が用いられている。家族を失ってしまった一人の女性の悲しみと嘆きを、主イエスは、はらわたがよじれる思いで分かち合われるのである。主イエスの憐れみとは痛みと悲しみを共に分かち合うことであった。そしてこの憐れむ主の言葉は、棺に横たわる若者へと向けられる。既に死の力に屈した者に言葉をかけるという行為は、人間には太刀打ちできない死の強大な力を思い起こさせる。しかし、救い主である主イエスの「若者よ、あなたに言う。起きなさい」という言葉を中心にして、死の運命は逆転する。主イエスの言葉は、私たちを滅びへと追いやる死の力に抗うことのできる唯一の力であることを、この聖書の物語は語る。
 今日私達をとりまく世界は、多くの不条理な力によって蹂躙され、多くの弱い者たちの命が、あるいはその心が、生きる力が奪われている。たしかに私達を取り巻くこの世の力はあまりにも強く、希望を見出すことはあまりにも難しいように思われる。けれども主イエスは「もう泣かなくともよい」と私達に語られる。憐れみの主は、私達の涙と不安を共に分かち合い、そして、十字架の死と、その死からの復活によって、その涙と恐れに終わりをもたらし、新しい命の始まりを与えて下さった。たとえどれほど、私達の地上での歩みが闇に閉ざされているように見えたとしても、憐れみの主の言葉「もう泣かなくともよい」が、私達のもとに届けられている限り、私達は新しい命へと向かう道を進むことができるのである。

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