2013年4月12日金曜日

[説教要旨]2013/04/07「信じて命を受けるために」ヨハネ20:19-31

復活節第2主日

初めの日課 使徒言行録 5:27-32 【新約・ 222頁】
第二の日課 ヨハネの黙示録 1:4-8 【新約・ 452頁】
福音の日課 ヨハネ 20:19-31 【新約・ 210頁】

 本日の福音書では、ヨハネの福音書の目的を、弟子たちとの間で起こった事柄を通して示している。すなわち、恐れと不安と疑いの中で心を閉ざす者が、復活の主イエスに出会いによって、新しい命に生きる喜びを与えられるという出来事である。
 主イエスの十字架の死によって、弟子達は失意と恐怖の中に突き落とされた。彼らは逮捕を恐れて部屋に鍵をかけて閉じこもっていたが、その時も、互いの密告と裏切りを疑い、不信に支配されていたであろう。その彼らの真ん中にキリストは突然立ち現れ「あなた方に平和があるように」と呼び掛ける。それは、弟子達に対する赦しと和解の言葉であり、祝福と希望の言葉であった。その時まさに弟子たちは、主イエスの復活の命がもたらされる真の平和を分かち合ったのだった。
 しかしトマスはこの出来事の際にはその場に居合わせなかった。トマスは仲間の弟子達が告げる主イエスの復活の知らせを受け入れられない。その言葉は、今の自分の状況が変わることなど自分には信じられない、自分が誰かと平和を分かち合うことなどありえない、そのように訴えているようにも響く。ところがそのトマスの前に主は現れ、「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」と語られる。この言葉は、ただトマスにだけ語られたのではなく、私たちに対しても向けられている。この地上で生きる私たちが、主イエスのしるしを「見なければ信じられない」と主張すること、それは、私達が自分自身が立たされたその現実に絶望し、落胆し、しかしそれを変えることができないでいる、その嘆きの裏返しであると言っても良いだろう。今の自分の置かれたこの閉塞した現実を変える力などどこにもあり得るはずがない。あるならば見せてみよ、そのような心の闇からの叫びを私達の誰もが抱えている。しかしそのような私たちのもとへ主イエスは訪れられる。さらに本日の福音書で復活の主イエスに出会った弟子達は、主イエスの「息」を吹きかけられる。それは、新たな命を与えられたことを意味する。恐れによって閉じこもっていた弟子達は、新しい「命」を与えられ、全世界へと主イエスの十字架と復活の希望とよろこびを宣べ伝えるものへと変えられる。
伝統的なキリスト教の暦では、復活祭に続く6回の主日には聖書に基づく主題がつけられている。復活祭後の最初の主日である本日は1ペトロ2:2から「新しく生まれた乳飲み子のように」と名づけられている。これは、古代の教会では多くの受洗者にとってこの日が受洗後最初の主日礼拝となったことに由来する。洗礼を通して与えられた新しい命を憶えつつ、その命は私達の中で育ち続けていることを信仰の先達者達は思い起こした。主イエスの復活という出来事を通して、教会に集うすべての者の命がまさに「新しく生まれた乳飲み子」のようにされているということ、それは成長する力に今も充ち満ちているということを、この主題は思い起こさせる。私達が信仰を与えられキリスト者となるという出来事、それは私達自身が、十字架における主イエスの死と結びつくとともに、復活の命と結びつけられた出来事、すなわち私達のうちに新しい命が生み出された出来事である。その出来事は、私達の内であふれ出る命として、日々成長してゆく。それは、今も、そしてこれからも、私達の地上での歩みを支える力なのである。

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