2013年4月6日土曜日

[説教要旨]2013/03/31「あの方はここにはおられない」ルカ24:1-12

主の復活(復活祭)

初めの日課 イザヤ 65:17-25 【旧約・ 1168頁】
第二の日課 2徒言行録 10:34-43 【新約・ 233頁】
福音の日課 ルカ 24:1-12 【新約・159頁】

 復活祭を迎えて教会は、キリストはこの世に来られて死を通って命へと到達されたこと、そしてまたキリスト者自身もまた主イエスが開かれた道を辿り、新しい永遠の命へと到ることを思い起こす。しかし主イエスの十字架と復活は決して受け入れやすい事柄ではない。私たちの生きるこの地上の価値観からするならばそれは馬鹿馬鹿しい話でしかない。けれどももし仮に、それが単なる世迷い言であったとしたなら、十字架と復活の出来事が人々の魂を支えてきたその事実をどのように説明することができるのだろうか。
 金曜の午後3時頃、十字架で主イエスは息絶えた。翌日は安息日であったため、十分な葬りの準備をすることも出来ないまま、日暮れまでにその亡骸は墓穴に葬られることとなった。そして、空白の土曜日が過ぎ、日曜の朝に主イエスの弟子の女性たちが、果たせなかった葬りのための準備をして、主イエスの墓へ向かう。しかしたどり着いた先で彼女らは空の墓を発見し、輝く衣を着た二人の人物から「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」という言葉を聞く。驚いて残りの弟子たちの元へと戻って語ったこの女性達の証言は、主イエスの復活の最初の証言となった。しかし、ルカ23章では「イエスを知っていたすべての人たちと、ガリラヤから従って来た婦人たちとは遠くに立って、これらのことを見ていた。」とあるように、この女性たちはまず主イエスの十字架の死を証言する者たちに他ならなかった。ところが同時に彼女達は「主イエスは墓におられない。主イエスは生きておられる」ことを証言する者たちともなった。そこには、二つの相容れない現実がぶつかり合っている。主イエスは死んで墓に葬られたという現実と、主イエスは生きておられるという現実である。私たちにとっては、この二つの現実は並び立つことなどあり得ない。しかしこの並び立つはずのない現実を、二人の天の使いは「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」と語って結びつける。
 女性たちの墓は空であったという証言、それは、意図していた葬りの準備が無意味なものになってしまったこと、あるいは、あるはずのものが失われてしまったということであり、悲しみ、嘆くべきことでなければならないはずである。自らの為す事が無意味となり、あるはずのものが失われることが、喜びと希望の徴となるということは、私たちの価値間、論理では並び立つはずのない事柄だからである。しかし、「主イエスは復活された」というメッセージは、並び立つはずのないものを結びつける。死から命へと私たちを導くそのメッセージを聴くとき、無意味さの中に喜びを、失うことの中に希望を、悲しみの中に慰めを、私たちは見出す。
 本日の福音書箇所においては、主イエスについてはその不在だけが語られる。しかし、それにもかかわらず「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」というメッセージは、私たちの価値観と論理を根底から逆転させる。主の復活は、死へと向かう私たちを命へと導く逆転の出来事であり、私たちのあらゆる悲しみが根底から喜びへと変えられる出来事に他ならない。主イエスの十字架を通して、死の闇の向こう側から、復活の光は私たちにとどけられている。主の復活の喜びを旨に抱きつつ、この日々を歩んでゆきたい。

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