2012年5月16日水曜日

[説教要旨]2012/5/13「キリストが友となられる」ヨハネ15:9-17

復活節第6主日

初めの日課 使徒 10:44-48 【新約・ 234頁】
第二の日課 1ヨハネ 5:1-6 【新約・ 446頁】
福音の日課 ヨハネ 15:9-17 【新約・ 198頁】

 本日の福音書は、主イエスとの密接な関係の中に置かれた私たちの生き方について語る。9節では「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた」、つまり父なる神が主イエスを愛されるということと、主イエスが私たちを愛されるということが、対等の価値をもつかのように記されている。しかし、たしかに父なる神は愛すべき方として御子イエス・キリストを愛されたが、その主イエスが私たちを愛されるということとは、同じ次元の事柄とは言えない。というのも、主イエスが私たちを愛されるのは、決して私たちが愛するに足る資格や力を持つからではないからである。その意味で、私たちが主イエスの愛の中にいるということは、決して当然のことではない。
 主イエスはさらに「わたしの愛にとどまりなさい」「わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。」という命令を語られる。しかし、それは主イエスの愛は条件付の愛であるということではない。なぜなら、主イエスの愛は、愛するに足らない存在である私たちのために、十字架においてその命を捨てて下さった、そのような愛だからである。いうなれば、それは条件など無い、無条件・無制限の愛である。だからむしろここで「わたしの掟を守るなら」とあることは、わたしたちが、窓を開いて太陽の光を受け止めるように、私たちが私たちの硬く閉ざした心の扉を開き、主イエスのその愛を受け止めるならば、ということなのである。
 主イエスの友となるということ、それは私たちがなにか人間以上の存在になるということではなく、私たちがキリストというまことのぶどうの木につながることで、人の目から見たならばたとえどんなにそれが不足し不十分であったとしても、その実を結ぶことを抜きにしてはありえないことなのである。その成果がたとえどんなに不十分であったとしても、私たち一人一人がこの世に主イエスの愛を伝える時、その成果の如何に関わらず、キリストの友として既に私たちに注がれている無条件の愛は主イエスにつながる私たちへと注がれているのである。
 かつて弟子たちに語られた主イエスの愛の戒めは、時を超えて現代の日本に生きる私たちのところにも届いている。私たちは自己中心的な、満たされることのない欲望の誘惑としての、この闇の力に取り囲まれている。その中で新しい永遠の命に留まり、神の愛によって渇きを癒され、喜びに満たされて生きるためには、友のために生きるということが不可欠であることを主イエスは語られる。それはまさに主イエスご自身が歩まれた道、あの十字架に向かう道を私たちもまた歩むということに他ならない。しかし、その道は主イエスが歩まれた今や、私たちにとってはもはや苦しみの道ではなく、神の愛が運ばれてくる道となっている。友のために、自分の命を用いてゆくこと、それこそが互いに愛し合うということであり、神の愛のうちに私たち自身が生きるということなのである。

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