2012年5月8日火曜日

[説教要旨]2012/05/06 「キリストにつながって」ヨハネ15:1-8

復活節第5主日

初めの日課 8:26-40 【新約・ 228頁】
第二の日課 4:7-21 【新約・ 445頁】
福音の日課 ヨハネ 15:1-8 【新約・ 198頁】

 若葉が生い茂っていく様子を目の当たりにする時、自然の生命力というものの偉大さを思わずにはいられない。翻って自らを省みるならば、あふれ出る命の循環の一部であることを拒み、私たちは、自分だけを満たし保とうとしているのではないか。その結果として、つながりと絆を見失い、また希望をも見失ってしまう者が溢れているのではないか、と思わずにいられない。
 本日の福音書で、主イエスは「わたしはまことのぶどうの木、あなたがたはその枝である」と語る。ぶどうの木につながっていなければぶどうの枝は実を結ぶことは出来ない。各部分がつながっているところでしか、命は循環しない。従って、主イエスがぶどうの木であるならば、枝である弟子たちは、自己完結することは出来ない。主イエスに連帯してつながることによってのみ、主イエスに従う者は命を得る。
 一方で、十字架での死は目前に迫っている。まだ自覚していないが、弟子たちはやがて主イエスを失うこととなる。死によって、弟子たちと決定的に引き離されるというのに、主イエスはなぜ「わたしにつながっていなさい」などと語ることが出来るのだろうか。いやむしろ、十字架の死があるからこそ、主イエスは敢えて「わたしにつながっていなさい」と語るのである。それは、現に今目の前にあるものだけではなく、見えない部分で続いていく、そのようなつながり、信頼と連帯の関係を主イエスは弟子たちに伝えようとしている。この世の価値基準においては、主イエスの生涯とは、志半ばで倒れ、挫折し敗北したものである、そのような評価しか与えられない。この地上での結果と成果だけに目を向ける限り、足りないもの、失われてしまったもの、それらのものを人はただ嘆き、恨み、その満たされない思いを誰かを攻撃することでしかはらすことが出来ない。しかし、十字架の主イエスは、復活の主イエスでもあることを聖書は語る。人の目には失われたとしか見えないもの、不完全なままのものであったとしても、実はその先には新しい永遠の命が続いていること、神のもとでの完成があることを、主イエス・キリストの復活の出来事は私たちに語る。
 主イエスにつながるということ。それは私たちが、主イエスの愛のうちに留まるということである。聖書がかたる神の愛とは、現代人が考えるような、個人の好悪の感情ではない。それは、つながりであり、信頼関係のことであると言える。新しい命のうちへと他者を受け入れ、支え、生かす結びつき、それが主イエスの愛である。主イエスの愛によって結びつけられる時、わたしたちは命の意味を知る。すなわち、私たちの命とは、自分をただ満たすため、自分自身を守るためだけにあるのではない。他者を受け入れ、支え、生かす。それこそが、主イエスにつながる私たちに与えられた命の意味なのである。「わたしにつながっていなさい」。この主イエスの言葉によって呼び掛けられる時、私たちは、主イエスによって与えられる、新しい命に出会う。その新しい命は、古い、自分のために生きる自分が、他者のためにその命を紡ぎだすものとして変えられる力となる。

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