2011年7月22日金曜日

[説教要旨]2011/07/17「命を得る」マタイ10:34−42

聖霊降臨後第4主日

初めの日課 エレミヤ 28:5−9 【旧約・1229頁】
第二の日課 ローマ 6:15−23 【新約・281頁】
福音の日課 マタイ 10:34−42 【新約・19頁】

 本日の福音書において、主イエスは派遣される弟子達に向かって語られるその文脈の中で、ご自身について「平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ」と語られる。その言葉は、限られた12人にのみ向けられたのではなく、聖書を通して、私たちに対しても向けられた言葉である。そして、主イエスはまさに厳しく私たちの心を貫く言葉「わたしは敵対させるために来たからである」「こうして、自分の家族の者が敵となる」を語られる。
 「家族が敵となる」ということに、私たちは大きな戸惑いを憶え、それはむしろ、私たちが信仰を通して願うことと逆なのではないか、家族が信頼の絆で結ばれることこそ、私たちが信仰に望むことなのではないか、と考えるそのように考えると、たしかにこの主イエスの言葉は、私たちにとっての大きな躓きとなる。しかし一方では古代社会において、家族は単に親子の情愛のつながりだけを意味するのではなく、社会における経済活動・生産活動の拠点であり、資産の保有の主体であった。そしてそれは、当然のように最も重視され、守られるべきものであることは、あたりまえのことであった。そしてそれゆえに、経済・生産活動を保全し、資産の保有を脅かすことを避けるためには、持てる者への持たざる者の隷属、役に立たない者の排除、他者を利用し奪い取ること、そうしたもの全ては「当然」で「あたりまえ」のこととして、見えないままとなるのであった。
 主イエスは、「預言者」、「正しい者」、そして「この小さな者」を同じ価値あるものとして、弟子達に、そして私たちに語られる。預言者・正しい者が、その働きと資質に応じて評価されることは私たちの価値基準に照らしても、決して理解に苦しむものではない。しかし「この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」という言葉は、私たちの価値を揺るがす。ここで語られていることは、私たちの基準によって誰かの働きと資質をその大きさ・功績によって評価することなしに、それらを全て超えて、「受け入れる」ことの重要さを物語っているのである。
 主イエスを愛するということは、疑いもせずに私たちが「当然」「あたりまえ」と思って押し隠しているものを切り裂き、明らかにする。隷属、抑圧、排除、他者を利用し奪い取ること。それらはまさにこの地上を蝕む闇であり、主イエスに従うことが真っ向から敵対するものである。まさにその意味で、私たちが自分の十字架を担うということ、それは私たちが、この地上においては「当然」「あたりまえ」として隠され見えなくされているものに対して、私たちが主なる神への信仰に支えられて対決していくことなのである。それはまさに、十字架を通して、私たちが真の命を得ることに他ならないのである。
 自らの十字架を担うということ、それは私たちが、私たち自身の「当然」「あたりまえ」を超え出て、この地上において価値無きものと見なされるものをこそ受け入れることであり、それによってはじめて私たちはい、真の命を得るのである。

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