2011年7月13日水曜日

[説教要旨]2011/07/10「だから、恐れるな」マタイ10:16-33

聖霊降臨後第4主日

初めの日課 エレミヤ 20:7-13 【旧約・1214頁】
第二の日課 ローマ 6:1-11 【新約・280頁】
福音の日課 マタイ 10:16-33 【新約・18頁】

 本日の福音書では、主イエスは、宣教のためにご自身の代理として派遣する弟子たちに向かって励ましの言葉を語る。その主イエスの言葉は直接には弟子たちに向けられているが、同時に、今聖書を読む私たち一人一人にもまた向けられている。けれども、私たちは自分自身のなせる事の小ささに嘆くしかない存在でしかない。主イエスの代理である使徒たちへの励ましは、そのような私たちにふさわしいものと言えるのだろうか。
 この世界に生きる私たちは、好む好まざるに関わらず、様々な対立・憎悪によって取り囲まれることがある。無理矢理にせき立てられ、問い詰められ、非難される。そのような中では私たちは自分が何を語ればよいのか、言葉を失ってしまう。そして自分自身など価値無きものであると思うしかなくなってしまう。それは、主イエスの弟子たちと変わることのない、私たちがおかれた現実である。まさにその意味では、狼の群れに取り残された羊のように罵られ追い詰められる全ての者に対して、主イエスはこの言葉を語られている。
 主イエスは「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」と語る。しかし、それはかならずしも非難と対立の攻撃の中で留まり続けるだけなのではない。なぜならば、「一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行きなさい」という言葉が続けられているからである。したがって「耐え忍ぶ」とはむしろ、自分に向けられた憎しみに対して、自分達がされた通りに仕返しすることを拒むことなのである。そのためには、時にその憎悪から逃げ出してしまうことがあったとしても、そのことで、私たちは自らの尊厳を失う必要はない。なぜならば、それがむしろ主イエスの言葉に従うことであると、この箇所は私たちに告げているからなのである。
 自分に非難を向ける相手が、たとえどれほど権威と権力を持っていたとしても、どれほど自分自身の弱さに嘆いたとしても、「恐れてはならない」と主イエスは語られる。なぜならば、魂を滅ぼすことが出来るのはただ主なる神だけだからである。二羽で1アサリオンの雀の一羽でさえ、神の許し無しに命を落とすことはない。一羽の雀の市場価値は、現代的に言えば数百円というところであろうか。たとえ私たちが、いかに自分に価値が無いように思えたとしても、その私たちを神は見守って下さることを主イエスは語られる。
 主イエスの励ましの言葉、それは罵られ傷つけられるばかりで、弱く価値無き者と自分を思うしかない私たちに対して向けられた言葉である。そしてその言葉が真実であることが、主イエスご自身が、傷つけられ、罵られ、十字架においてその命を失ったにも関わらず、その死から甦られたことによって明らかにされたのであった。私たちが傷つき、弱り果てる時、主イエスは私たちの最も近くにおられる。だから、弱く小さい私たちは、恐れることはないのである。

0 件のコメント: