2011年6月30日木曜日

[説教要旨]2011/06/26「キリストについてゆくと」マタイ9:9−13

聖霊降臨後第2主日

初めの日課 ホセア 5:15−6:6 【新約1409頁】
第二の日課 ローマ 5:6—11 【新約・279頁】
福音の日課 マタイ 9:9−13 【新約・ 15頁】

 新約に登場する徴税人はおそらく、道ばたで通行税・関税を徴収する者のことを意味していた。その多くは、ローマ帝国から徴税の職務を請負った元締めの下請けによって集められたその日雇いの労働者のような立場であったと考えられる。彼らは、日雇いの仕事であれ、無いよりはましであると思わざるをえないような、不安定な生活を余儀なくされていた。
 徴税人マタイは、収税所にいたところを、主イエスに呼び出され、その後に従ってゆく。その動きはダイナミックで感動的ですらある。なぜ彼は立ち上がって、主イエスの後をついてゆくことを決断できたのか。その理由について聖書は沈黙し、ただそこで起こった出来事だけが語られる。
 徴税人マタイが主イエスの弟子となったことは、ただ彼一人の出来事では終わらなかった。主イエスが彼と共に食卓を囲んでいる時、徴税人や罪人も大勢やってきて同席していたと聖書は語る。マタイの決断の結果は彼一人だけではなく、彼と同じ徴税人たち、そして「罪人」と呼ばれた人々が、主イエスのもとに集うことのできる道筋を創り出したのであった。罪人と呼ばれた人々は、言葉通り「犯罪者」を意味すると言うよりも、債務のために土地を失い生活の糧を求めて都市へと流れてきた人々が多かったと思われる。街の中に生活の基盤を持ってはいない彼らは、人々から「罪人の仕事」として厭がられる仕事であっても生きてゆくためにはせざるを得ない者たちであった。人々から蔑まれ、厭まれていた彼らを、主イエスは共に食卓の席に招かれる。マタイがなした決断は、彼と同じように社会の周辺へと追いやられ、厭まれ、蔑まれた者たちに、共に食卓を囲む絆を回復することとなった。それはまさに、主イエスが何のためにこの地上に与えられたのかということを物語っていた。
 一方、その様子を見て非難する者たちもいた。宗教的な指導者が、徴税人・罪人と食卓を囲むということは彼らが体験したことのないことであった。彼らにとっては、その規範を守ることこそが、神の民にふさわしいことであった。自分達の体験の中で正しいとされてきたことを保持することこそが、信仰的な生活をおくることに他ならなかった。そのような彼らにとって、徴税人と罪人と食卓を囲む主イエスは、およそ指導者にはふさわしくない、間違った存在であり、その食卓の交わりもまた考えられないようなものでしかなかった。それゆえに、自分達の体験と正しさを守ろうとした者たちは、マタイのように、主イエスに従ってゆくことが出来なかった。
 キリストについてゆくと、私たちは、自分の体験の中で受け取ってきた様々な常識から、出て行かなくてはならない。それは私たちにとって、深い困惑をもたらす。しかしもし立ち上がって、キリストの後に従うならば、私たちはもはや孤独の中で絶望に沈む存在ではなく、喜びと希望を分かち合う絆へと導かれるのである。

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