2011年6月20日月曜日

[説教要旨]2011/06/19「いつもあなたがたと共に」マタイ28:16-20

初めの日課 イザヤ 6:1-8 【新約・1069頁】
第二の日課 2コリント 13:11-13 【新約・341頁】
福音の日課 マタイ 28:16-20 【新約・60頁】

 本日の福音書は主イエスの大宣教命令とも呼ばれている箇所である。この全世界の人々をキリストの弟子とするために、使徒たちが派遣されたことが記されている。
 使徒達が最初に主イエスについて来た時には、自分達がそのようにどこかの誰かのために派遣されるということなど予想してはいなかったと思われる。ある者はイエスの人格にふれ、ある者はイエスの力にあこがれ、ある者は自分自身の将来計画のために、イエスという人物と共に旅を続けたのであった。しかし、十字架において主イエスが処刑されたことで、弟子たちのそれぞれの期待も思いも全て断絶することとなってしまった。いわば、主イエスの地上での歩みが終わると同時に、弟子たちが思い描いていたそれぞれのストーリーはそこで終わってしまったのである。
 しかし復活の出来事を福音書が語る時、弟子たちの物語には続きがあることが示される。復活そして顕現の出来事を経て、今度は主イエスの物語を弟子たちが受け継いでゆくのである。主イエスのストーリーは弟子たち自身のストーリーとなってゆくのである。
 もちろん、弟子たちの中には「疑う」ものもいたと福音書は告げている。物語が未来へと続いていくことよりも、現に今断絶することの方が、私たちに迫ってくる現実として遙かに大きな力をもっているからである。目の前にある様々な喪失・断絶・困窮は、自らの力ではどうにも抗うことの出来ない程の力をもって、私たち疑いへと追いやる。
 疑いの中で、私たちはあらゆるものを、自分をその困難から救い出すことの出来るものではないかと試すものの、どれ一つとして、そもそも願っていたように自分の物語を作り出すことが出来ないことに私たちはやがて気付かざるを得ない。そのように全て疑い尽くす時、疑いは絶望へと変わる。
 しかし、そうであるからこそ、復活の主イエスは語られる。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、全ての民をわたしの弟子にしなさい」。私たちの目の前に迫る現実を凌駕するほどの権能・力をもって、主イエスは弟子たちを派遣する。自分の思いと計画のために生きてきた弟子たちは、復活の主によって、ここにはいない「誰か」のために押し出されてゆく。そしてその時、弟子たちはもはや、自らの力の小ささに絶望することはない。なぜならば主イエスが「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがと共にいる」と語られるからである。
 自分の思いと計画を超えて誰かのために生きる時、主イエスの物語は、私たち自身の物語へと引き継がれてゆく。それは私たちと共に、主イエスが共におられることなのである。

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