2010年11月17日水曜日

[説教要旨]2010/11/14「死に打ち勝つ言葉」ヨハネ福16:25-33

三鷹教会召天者記念礼拝

初めの日課 ヨナ 2:1-10 【旧約・1446頁】
第二の日課 1コリント 15:50-58 【新約・322頁】
福音の日課 ヨハネ福 16:25-33 【新約・201頁】

 本日の福音書は、ヨハネ福音書の「告別説教」と呼ばれる、主イエスによる大変長いメッセージの一部となっている。ヨハネ福音書の著者は、神の国とこの地上との別離を誰よりも強く意識していたと言える。そうであるからこそ、この地上に遺される弟子達に向かって主イエスが語られた言葉に集中し、それを人々と分かち合わずにはいられなかったのであろう。それは物語の中では直接には弟子達に語られたものであるかもしれないが、むしろ、聖書を読むであろう全ての読者に向かって伝えられているのである。愛するもの、信頼すべきもの、頼るべきものを失った時、人はどうすれば良いのか。別離と共に襲い来る悔悟と悲嘆の思いに、そして同時に迫り来るこの世の荒波に、自分は独りで立ち向かってゆけるのか。それは、古今を問わず、私たち人間にとって大きな問題である。とりわけ死による別れは、私たちの全く手の届かない領域を、私たちにまざまざと見せつける。この世に遺された私たちは、死を前にしてただ絶望と痛みとにただおびえることしか出来ないように思われるのである。
 しかし、ヨハネ福音書が伝える主イエスの別れのメッセージは、地上に遺されたもの達はただ悲しみにくれるだけではないことを示している。本日の箇所では特に、二つの「時」が、主イエスの言葉の背後において語られている。一つは主イエスがこの地上において現に歩まれている時である。そしてもう一つの時とは、主イエスの十字架と復活の出来事が起こった後の時である。直前の22節では「『今は』あなたがたも、悲しんでいる」と語られ、その直後で「あなたがたは心から喜ぶことになる」と続けている。悲しみに満ちた「今」が、喜びに満たされるようになる。そしてその間にあるものとは、主イエスとの出会いに他ならなかった。この世の苦難の中にある時、人はこの二つの「時」は、決して重なることのない時であるかのように思う。たしかにこの世において、私たちは多くの「なぜこのような出来事が起こるのか」「なぜこのような悲しみがあるのか」といった疑問を前にして、その答えを見つけあぐねている。それはまるで「たとえ」によって謎かけを投げかけられたものの、その答えを見いだすことが出来ないままでいるのと似ていると言える。
 本日の福音書の末尾で主イエスは語られる。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」十字架の死から復活された主イエスの言葉は、この世において、死、別離、苦難、悲嘆という様々な力によって責め苛まれている私たちが「喜び」に心が満たされる時、地上に遺された私たちに、それは主イエスの十字架と復活を通して、命の意味がはっきりと示される時をもたらされるのである。

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