2010年11月3日水曜日

[説教要旨]2010/10/31「本当の自由」ヨハネ福8:31-36

宗教改革記念日

初めの日課 エレミヤ 31:31-34 【旧約・1237頁】
第二の日課 ローマ 3:19-28 【新約・ 277頁】
福音の日課 ヨハネ福 8:31-36 【新約・ 182頁】

 本日の福音書箇所で主イエスは「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」と語られる。しかし普通の価値観で考えるならば「弟子である」ことは、不自由な状態であり、不完全な状態であることを意味している。それなのになぜ弟子であることが「自由」であるのだろうか。直前の箇所では「多くの人々がイエスを信じた」と書かれており、それに続いて「御自分を信じたユダヤ人たちに言われた」とある。「信じた」という過去の出来事として表されているということは、これらの人々が今なお迷いと試みの中にあることを暗示している。なぜならば「信じる」という生き方は、人が与えられた救いを受け取り、古いあり方を放棄することだからである。すなわちそれは、自分自身は見えていると思い込んでいる見えない人であり、自由人であると思い込んでいる奴隷であるにすぎないことに目を覚まさせることなのである。
 確かに、他者の身体を暴力的に支配し所有することは、近代民主主義において紛う事なき「罪」である。しかし聖書が問題とするのは、そうした法的な意味での罪に留まらない、むしろもっと人間存在の奥深くに関わる事柄としての「罪」の問題であった。本日の福音書に登場するユダヤ人達は、主イエスに対して、「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」と問いかける。彼らにとって、アブラハムの子孫であることは、彼らの所有する資産の一つであった。しかし、人は自分で自分の命を創り出すことは出来ない以上、それは本来神から与えられた賜物であった。彼らが自分たちの出自とその実績を誇れば誇るほど、彼らは自らが神によって創り出された命であることから離れてしまっているのである。そしてあたかも、自分自身で、自分自身の命を創り出し、その価値の優劣を定めることができるかのように錯覚することであった。それこそまさに人間の罪の姿に他ならないのである。
 主イエスの弟子であること、それは主イエスが歩まれた十字架への道を、人が共に歩みつづけるということであった。主イエスの十字架とは、この世におけるあらゆる絶望と喪失の先に、希望と解放を神が与えられた出来事に他ならなかった。そして、その出来事は人間が自分自身の手によっては絶対に獲得することのできないもの、ただ神の恵みとしてしか与えられ得ないものであった。キリスト者がキリスト者であり続けることは決して自明なことではない。むしろキリスト者は常に試みの中に立たされ、常にキリスト者になろうと葛藤しつづける存在でしかない。しかし、それは同時に、十字架によって私達に与えられている、神の恵みの中を歩み続けることなのである。

0 件のコメント: