2010年12月23日木曜日

[説教要旨]2010/12/19「その憐れみは代々にかぎりなく」ルカ1:46-55

待降節第4主日・クリスマス礼拝

初めの日課 サムエル上 2:1-10 【旧約・ 429頁】
第二の日課 ローマ 2:17-29 【新約・ 275頁】
福音の日課 ルカ 1:46-55 【新約・ 101頁】

 4回のアドベントの主日を過ごしてきた私達は、今週クリスマスを迎えることになる。この日曜はいわばクリスマスの幕開けの時となっている。それに際して、神を褒め称える言葉が並ぶ箇所が本日の福音書として選ばれている。「力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。」それはまるで、このクリスマスの時の幕開けを告げるファンファーレのように私達の心に鳴り響く。
 この箇所は、主イエスの母であるマリアが、洗礼者ヨハネの母エリザベトからの祝福を受けて語る言葉として記されているが、そこで語られている事柄は、さまざまな矛盾と逆説にみちていることに私達は気付かされる。それはまず、マリアが自らを「幸いな者」と呼ぶことである。いいなずけであるヨセフとの結婚を前にして子を宿したことは、当時の社会的な規範からすれば、とんでもない出来事であった。しかし、天使ガブリエル、洗礼者の母エリザベト、そしてエリザベトの胎の中にいる、最後の預言者である洗礼者ヨハネは、マリアを祝福する。そこには、人間の視点と天的な視点との間の決定的な相違がある。実に、マリアに起こった出来事は、神の祝福と恩寵の出来事であるということは、マリアが宿したその子が、世の救い主であるということを抜きにしては理解できないのである。人の目に見える領域、すなわち自分の規範にあてはまる事柄からのみ、目の前の出来事を捉えるならば、それは苦悩と絶望の出来事としか映らない。しかしマリアを祝福する視点、いわばそれはまだ起こってはいない未来の救いの出来事から今自分の前で起こっている出来事を見る視点なのである。
 それらの祝福に応えて、マリアは自らを「幸いな者」と語る。しかし、もし私達が、目に見える事柄だけを追うならば、その祝福と恩寵はただ一人に向けられ、その幸いな出来事はただ一人にのみ起こったことでしかない、なんという不公平な出来事なのだ、そのような苛立ちと嫉妬を憶えるかもしれない。しかし、マリアに個人的に起こった神の恩寵の出来事はただマリア一人の問題ではないということ、それは全ての人々に及ぶとする。ここでも大いなる逆説が語られることとなる。救い主を宿したのはマリアという個人以外には体験しえない出来事であり、その意味でマリアは特権的な存在でしかない。誰もがマリアと同じ体験をすることなどできないのである。それにもかかわらず、「その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます」とマリアは語る。それもやはり、そこで与えられた祝福と恩寵とは、主イエスが与えられたという出来事であることを抜きには理解することができないのである。
 実に主イエスは、苦悩や絶望、怒りや嫉妬、そうしたさまざまな人間の困窮の中に与えられた光なのである。主イエスの出来事を抜きには、困窮はただ深い闇でしかあり得ない。私達はその闇の中でただぶつかり合い、傷つけあうだけである。しかし、その闇、憎悪と嫉妬、裏切り、そして十字架の死という絶望的な苦悩を越えて、命の世界を主イエスは私達に示されたのである。その主イエスが私達の光として与えられたのである。主イエスの光は、まだ見ぬ救いへの希望を動かぬ確信として私達の魂に届けるのである。
 今年もクリスマスの幕が開ける。2000年以上前に一人の女性に投げかけられたその祝福と恩寵の光は、時空を越えて私達のもとに届いている。

0 件のコメント: