2011年9月10日土曜日

[説教要旨]2011/09/04「わたしを憐れんでください」マタイ15:21-28

聖霊降臨後第12主日

初めの日課 イザヤ 56:1-8 【旧約・1153頁】
第二の日課 ローマ 11:25-36【新約・291頁】
福音の日課 マタイ 15:21-28 【新約・30頁】

 本日の福音書の日課の直前では、食物と清浄についての昔の人の言い伝えに関して、ユダヤの指導者たちが主イエスとその弟子たちに対して非難を向ける様子が描かれている。聖書の預言の実現として、イスラエルに遣わされたはずの主イエスを、当のイスラエルの中枢にある者たちは受け入れることが出来ない、その様子が描かれる一方で、本日の日課では「カナンの女」が登場する。「カナン人」という表現は、この女性がユダヤ人ではないことを示している。
 娘を癒して欲しいというこの女性の願いに対する主イエスの態度は、あまりに素っ気なく、現代の読者である私たちにとっては、驚きと不快すら感じずにはいられない。しかし注意深く読み直すならば、むしろ弟子たちが、この女性に関わることを疎んじて斥けるように主イエスに進言しているのである。それに対して、この女性と主イエスとの対話に集中していくならば、やや異なる印象を受けることとなる。
 この女性は、3度にわたって主イエスを呼び求める。「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」「主よ、どうかお助けください。」「主よ、ごもっともです。」その呼びかけの中には、癒しを受ける条件としての、彼女自身の属性や能力に関わる事柄は一つもない。彼女に出来ること、それはただ主イエスを救い主として呼びかけ求め、そしてその言葉に打ち砕かれ、その言葉を肯定し受け止めるしかないのである。
 この女性の呼びかけに対して、主イエスは最初は沈黙し、そして次いでその求めを打ち砕くかのように振る舞われる。それは、まるで私たち自身が、その人生の歩みの中で主を呼び求める時と同じであるように思われる。私たちの叫びと求めに、主は沈黙し答えられないようにしか見えないことがある。そして、主の言葉によって、自分自身が打ち砕かれる時がある。けれども、自らを打ち砕くその主の言葉を受け止める時、そこにこそ信仰と救いがあることを、私たちは知る。このカナンの女性の信仰の本質とは、彼女には何もないこと、何も出来ないこと、ただ主イエスを求めるしかない、ということに他ならなかった。
 ユダヤの指導者達は、自らの正統性と正義を誇るがゆえに、主イエスを受け入れることができない。しかし、そうした人間の価値観に基づく正統性と正義を、メシアである主イエスによって示された神の義、神の憐れみは打ち砕く。
  福音書の物語において主イエスはさらに権威と権力との対立を深め、やがてその十字架の死へとたどり着く。常識的に考えるならば、それはこの世の正義と正統性に楯突くものの末路として当然のものであった。けれども、その敗北と死から主イエスは甦り、その墓を打ち砕かれた。神の言葉が、人の正義と正統性を打ち砕くところ、そこにこそ神の義と憐れみ、そして救いは実現する。
 私たちは、毎週の礼拝の中で「主よ憐れんでください」「キリストよ憐れんでください」と願う。主を求めるしかない私たちのその叫びと求めは、主イエスの十字架を通してのみ聞き届けられるのである。

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