2015年2月11日水曜日

四旬節〜イースター(復活祭)のご案内[02/18-04/05]

ルーテル三鷹教会では四旬節から復活祭までの期間に以下の礼拝・祈りの時を持ちます。

灰の水曜日の祈り
2月18日(水)19:00 チャペルにて
額に灰で十字をつけ、四旬節の始まりを憶えます。

受苦日礼拝
4月3日(金)19:00 チャペルにて
キリストの十字架を憶えて祈りの時を持ちます。

イースターエッグづくり
4月4日(土)14:00 集会所にて

イースターヴィジル~復活徹夜祭
4月4日(土)18:00 チャペルにて

イースター(主の復活)主日礼拝
4月5日(日)午前10時半からチャペルにて
礼拝後、持ち寄りによる昼食会が行われます。

2014年11月30日日曜日

ルーテル三鷹教会2014年クリスマスのご案内[12/07-1/1]

12/7(日)    14:00より やかまし村のクリスマス チャペルにて
にんぎょうげきや歌でたのしくすごしましょう!ご家族でおこしください。

12/21(日)    10:30より 主日礼拝 チャペルにて
メッセージ「主があなたと共におられる」李明生牧師
三鷹教会聖歌隊による讃美
礼拝後、大学食堂にて各自一品持ち寄りによる祝会が行われます。

12/24(水)    19:00より クリスマス・キャンドルサービス チャペルにて
昨年に引き続き、今年も12/24の礼拝はルーテル学院大学との合同で行われます。
メッセージ「まことの光-あなたのために」石居基夫牧師(ルーテル学院大学教授・日本ルーテル神学校校長)
音楽による賛美 間垣健二氏(ヴァイオリン)・ラウス・アンジェリカ(ルーテル学院大ハンドベル)
12/24(水)     21:00より 聖餐礼拝 チャペルにて

2015/1/1(木)11:00より 元旦礼拝 チャペルにて

ともに主イエス・キリストのご降誕をお祝いいたしましょう。

みなさまのお越しを心よりお待ちしております。

2014年11月19日水曜日

やかまし村のクリスマスのお知らせ[12/07]

やかまし村のクリスマス2014
人形劇とうた
もうすぐクリスマス!
にんぎょうげきや歌でたのしくすごしましょう
☆おともだちをさそってきてね☆
ゲスト
ほんわかマミーズ
人形劇「こぐまちゃんのてじな」他

2014年12月7日(日)ごご2時から
ルーテル学院大学チャペルにて
(181-0015 三鷹市大沢3-10-20)
主催:日本福音ルーテル三鷹教会 文庫やかまし村・教会学校

2014年10月18日土曜日

ルーテル三鷹教会・ウェスト東京ユニオンチャーチ合同礼拝のご案内[2014/11/02]

ルーテル学院大学愛(めぐみ)祭が行われる11/2(日)はルーテル三鷹教会とウェスト東京ユニオンチャーチとの合同礼拝となります。

2014年11月2日(日)10:30より ルーテル学院大学チャペルにて

お気軽野ご参加下さい。

[説教要旨]2014/10/12「全ての人への招き」マタイ22:1-14

聖霊降臨後第18主日

初めの日課 イザヤ書 25:1-9 【旧約・1097頁】
第二の日課 フィリピの信徒への手紙 4:1-9 【新約・ 365頁】
福音の日課 マタイによる福音書 22:1-14 【新約・ 42頁】

21:23以下で祭司長や長老達たちが「何の権威でこのようなことをしているのか」と、神殿の境内で人々を教える主イエスに問い糾したのに対して、主イエスは3つの「天の国についてのたとえ」によって応えられ、本日の日課はその3つめにあたっている。一つ目のたとえでは洗礼者ヨハネについて、二つ目では主イエスご自身の受難について触れられている。そして本日の日課である3つめでは、使徒達の働き、教会の在り方について触れられることとなる。
譬えではしばしば神は王の姿で物語られるが、ここでは王の催す王子の婚宴のたとえが語られる。王は、王子の婚宴に招かれていた者たちに、使いのものを派遣して呼びに行かせるが、彼らは王の呼びかけに応えない。王の呼びかけを無視した後の行動としてここで語られているのは、彼らの日常生活であった。彼らにとって、王の呼びかけは自分達が既に手にしている財産を保持する以上には、重要性をを持ってはいなかった。彼らにとっては、自分自身の思い通りに計画が進むことの方が遙かに重要であった。しかし、自分の計画を変えることを拒み、呼びかけにも応じなかった結果、彼らは逆に自分の持てる全てを失うこととなった。
一方で、宴席には予想外の者たち、すなわち「招かれなかった者たち」がやってくる。彼らは町の大通りを歩いていただけの者たちであり、それはおよそ、雑多な、まとまりのない、集まりであった。しかし、その雑多な人々と共に祝宴は始まることとなる。このたとえが語る祝宴とは、主イエスがこの地上で実現してこられた食卓の集まりであり、それはまた天の国における祝宴の先触れとして、教会とはそのような場とであるはずということが、ここで問いかけられている。たしかに今、教会に集う私たちは、「ただ大通りを歩いていた」に過ぎないような、天の国祝宴に招かれるにふさわしいような、敬虔さも知識も名声も力も無いものでしかない。けれども、そのような私たちを、主は招かれているのである。
たとえの終わりでは、礼服を着ていない者が宴の席から放り出される様子が描かれるが、通りを歩いていたところ呼び集められたのに、礼服を着ていないといって咎められるというのは、あまりにも理不尽で不可解な話である。しかし敢えてその意味を問うならば、神の宴に招かれた者、その先触れとしての教会に集う者は、そのその雑多でまとまりのない宴を、その全存在をもって喜び祝わなければならない、ということなのである。この雑多な集まりの中にこそ、天の祝宴の先触れがあることを、私たちは希望とし続けなければならないのである。パウロは語る。「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」(フィリピ4:4?7)
私たちは今、世界のいたるところで、キリストのもとで教会に集まっている。この教会という雑多な祝宴を私たちが喜び祝うとき、神の平和は私たちに与えられるのである。

[説教要旨]2014/10/05「捨てられた石が」マタイ21:33-46

聖霊降臨後第17主日

初めの日課    イザヤ書 5:1-7    【旧約・ 1067頁】
第二の日課    フィリピの信徒への手紙 3:4b-14    【新約・364頁】
福音の日課    マタイによる福音書 21:33-46    【新約・ 41頁】

本日の福音書では、先週につづいて、エルサレム入城後に、神殿を舞台にして主イエスとユダヤの宗教的権威を持つもの達との間でのやりとりが続いている。本日のたとえでは「石」と共に、旧約に登場する「ぶどう園」のモチーフが用いられる。それは本日の旧約の日課であるイザヤ5章を彷彿とさせる。旧約では、ぶどう園とは神の国を受け継ぐ民イスラエルの象徴でもあった。いのちと愛の源である神は、その民の間で、不正ではなく正義が支配し、すべての人々の、とくに最も貧しく弱い人々の命と尊厳と権利が守られることを望まれる。正義と命の尊厳こそが、主が植え育てたぶどう園がもたらさなければならなかった実であった。言うならば、預言者が語る「ぶどうが良い実を結ぶ」ということは、公正な世が確立すること、つまり弱い者が虐げられ排除されることなくその命が守られる世界、人としての尊厳が貶められることなく、互いに尊重される世界が実現することであった。
本日の福音書のたとえでは、ぶどう園を借りた農夫たちは正義を実践せず、命の尊厳を守ろうともしてはいない。そこではただ、自らが手にしているものをいかにして一時の間失わないでいるか、だけが最優先事項となっている。短期的な利益を追求するのであれば、農夫達の判断は合理的である。しかし、神の救いの歴史が実現してゆくその長い長い道筋の中で彼らの価値基準を見るならば、今あるものを失うことを恐れ、不正義と抑圧を選び取ることはあまりにも愚かである。主イエスと対峙する宗教的権威者たちは、自らの正義を疑わなかった。しかし、彼らの正義は、一時の彼らの面目と権益を固守するものであることを、この一連の問答の中で主イエスは厳しく問い詰めてゆく。権威を持つ者達と、主イエスとの間の決別は決定的となってゆく。
この後マタイ福音書では、過ぎ越祭の直前の箇所(25:31−46)で、貧しい人に食べ物を与えないことはキリスト自身を否定することである、という譬えが語られることとなる。そこでは、キリストを受け入れ、キリストに従う者になることは、キリストからいのちを受け、そしてその命を分かち合い、与え合うことに他ならないことが語られる。
神殿で宗教的権威を持つ者達と対決する主イエスは、この後に続く、十字架と復活の出来事によって、その命を私たちと分かち合われた。だからこそ、主イエスの命を与えられ、主イエスの後に続く私たちは、この地上において、新しい永遠の命に向かって、正義と命の尊厳を実現する道を既に歩んでいる。それは確かに、今は報われることもなく、失うことを余儀なくされるかもしれない。けれども、まさにその時、主イエスは私たちと共に歩まれているのである。
本日の使徒書であるフィリピ書3章でパウロはこう語る。「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。」
私たちもまた、既に主イエス・キリストに捕らえられ、十字架の道を歩んでいる。それはまた、復活の命、新しい永遠の命、正義と愛とが支配する神の国に生きる命への道でもある。

[説教要旨]2014/09/21「この最後の者にもあなたと同じように」マタイ20:1-16

聖霊降臨後第15主日

初めの日課    ヨナ書 3:10-4:11    【旧約・ 1447頁】
第二の日課    フィリピの信徒への手紙 1:21-30    【新約・362頁】
福音の日課    マタイによる福音書 20:1-16    【新約・ 38頁】

本日の福音であるたとえ話では人の思いと業に対して、神の思いと業が鋭いコントラストによって語られている。本日の福音書の日課である譬えでは、あるぶどう園の主人が労働者を雇い入れるために広場へと出て行く。彼は「ふさわしい」賃金を支払う約束で、夜明け頃(おそらく朝6時頃)から3時間おきに夕方5時にいたるまで労働者を雇い、ぶどう園へと送る。日没の頃(おそらく夕方6時頃)、賃金を支払う際に主人は全ての人に同じように1デナリオンを支払うが、これに対して朝一番から働いていた者たちは不平を言う。しかし主人は「友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。」「それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。」と語る。ここで展開されている事柄は、私たち人間の考える正論からは大きくかけ離れている。同じ種類の仕事であるのに、1時間の労働と丸一日の労働が同じ報酬であるということは正しいものとは考えられない。もちろん、今日の社会において、それぞれの生活を守るために、労働に対する不当な扱いに抗議することは必要であることは言うまでもない。しかし、「天の国は次のようにたとえられる。」という言葉によって始められるこの譬え話は、私たちに人の思いを超えた、天の国の在り様を垣間見せる。
当時の一人の日雇い労働者の平均年収は約200デナリオンと考えられ、それは6人の家族が生存していく最低限の金額であったと言われている。したがってこの1デナリオンという金額は、単に一日の労働の対価であるだけでなく、家族の命を支える値でもあった。すなわち、ぶどう園の主人が依拠する正しさの基準、それは「全ての者の命が救われる」ことにあった。救いの恵み、それは何よりも、後へと追いやられ、他に先んじることが出来なかった者、持っていたはずのものを失ってしまった者、失意と悲しみの中にある者にとって、なによりも大きな喜びとなる。この譬えで語られる、天の国の「正しさ」の基準とは神の限りのない恵みに基づくものであった。一方で、不平をつぶやくものたちに、ぶどう園の主人は「友よ、あなたに不当なことはしていない」と語りかける。ここで「友」とされている言葉は同労者への呼びかけに近い表現である。しかしこの表現はこの後、22:12では礼服を着ないで婚宴に参加した者への呼びかけとして、また26:50では主イエスを逮捕しようと近づくユダに対する呼びかけとして用いられている。言うならば、主イエスの呼びかけを受け入れることの出来ない者に対して、それでもなお呼びかけ続けるという思いが込められている。「不当なこと」とはつまり「ふさわしい賃金」と語られた、その「ふさわしい」ことではないことであり、つまり神がその限りのない慈しみをもって「この最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。」というのはむしろふさわしい、正しいことではないか、と呼びかけている。私たちが、主イエスの「友よ」という呼びかけに応える時、私たちは、後へと追いやられ、奪い取られた者へと思いを合わせ連帯する事が出来る。そしてその時、私たちは限りの無い恵みと救いの喜びを共に分かち合う者とされるのである。