2015年10月2日金曜日
[説教要旨]2015/09/20「すべての人に仕える者に」マルコ9:30-37
[説教要旨]2015/09/13「自分の十字架を背負って」マルコ8:27-38
[説教要旨]2015/09/06「イエスが訪れるところでは」マルコ7:24-37
[説教要旨]2015/08/30「人の心から出るものは」マルコ7:1−8、14-15、21-23
[説教要旨]2015/08/16「世を生かすための命」ヨハネ6:51−58
[説教要旨]2015/08/09「キリストの愛にとどまって」ヨハネ15:9-12 エフェソ2:13-18
[説教要旨]2015/07/19「村でも町でも里でも」マルコ6:30-34,53-36
[説教要旨]2015/07/12「死から甦ったのは」マルコ6:14-29
2015年10月1日木曜日
[説教要旨]2015/07/5「この人はどこから」マルコ6:1-13
2015年9月28日月曜日
[説教要旨]2015/6/21「いったい、この方は」マルコ4:35-41
[説教要旨]2015/06/14「どうしてそうなるのか」マルコ4:26-34
[説教要旨]2015/06/07「神の御心を行う人」マルコ3:20-35
[説教要旨]2015/05/24「真理の霊が来ると」ヨハネ15:26-27、16:4b-15、使徒2:1-21
[説教要旨]2015/05/17「よろこびでみちあふれるように」ヨハネ17:20−26
[説教要旨]2015/05/10「キリストの愛に留まる」ヨハネ15:9-17
[説教要旨]2015/05/03「キリストにつながって」ヨハネ15:1-8
2015年4月22日水曜日
[説教要旨]2015/04/12「信じない者ではなく」ヨハネ20:19-31
初めの日課 使徒言行録 4:32-35
第二の日課 ヨハネの手紙一 1:1-2:2
福音の日課 ヨハネによる福音書 20:19-31
先週、私達は主の復活を祝った。そして本日の福音書では、いわばヨハネ福音書における聖霊降臨の出来事が、家の中に集まっていた弟子たちの復活の主イエスと出会いの中で語られている。主イエスの十字架での死によって、弟子達は失意と恐れの中に突き落とされていた。彼らは自分達もまた主イエスと同様に逮捕されることを恐れて、部屋に鍵をかけて閉じこもっていた。ヨハネ福音書の物語の筋に従えば、彼らは既に、墓は空であった知らせを聞いていた。しかし、どこまでも従うという約束を裏切ってしまった彼らは、主イエスと再び出会うことをむしろ恐れていたのかもしれない。さらに彼らは、仲間と共に部屋の中で隠れている時も、裏切りと密告を疑い、互いを信頼出来なくなっていたのではないか。彼らの心の扉は固く閉ざされ、共に歩んできた仲間からの「主イエスの墓は空であった」という知らせを喜びの報告として受け入れるなど出来なかった。
その彼らの真ん中に主イエスは突然立ち現れ、「あなた方に平和があるように」と呼びかける。それは、恐れと不安との中で心を閉ざす弟子達に対する赦しと和解の言葉であった。そしてその手と脇腹の傷は、まさしく十字架に架けられた方がここにおられるということを示すものであった。十字架の主が共におられるということは、変わるはずのない彼らの閉塞した現実を変える、新しい命が造り出され、与えられることを示す出来事であった。主イエスは、弟子達に息を吹きかけ、「聖霊を受けなさい」と語られる。創世記で神は土に息を吹き込み、命ある生きる者とされた。弟子達もまた、復活の主イエスに出会い、息を吹きかけられる。それは、彼らが新たに創造された命を与えられたことを意味していた。人々を恐れ、部屋に、また自分の心に閉じこもっていた弟子達は、「聖霊」を与えられ、全世界へと主イエスの十字架と復活を宣べ伝えるものへと変えられたのだった。
最初の出来事の際に居合わせなかったトマスは「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」と主張する。その言葉は、今の自分の状況が変わることなどありえないのだと訴えているようにも響く。ところが8日目の日、そのトマスの前に主が現れ、語りかけられる。主イエスはトマスに「見ないのに信じる人は、幸いである」と語られる。「見た」かどうかよりもむしろ、主の言葉を「聞く」ことが、私たちのうちに「信仰」と「信頼」を生み出すものであることを、私たちは知る。
復活の主イエスが弟子たちと共におられたのは、いずれもが週の初めの日、つまり日曜日であった。この週の初めの日が、教会において「主の日」としての礼拝の日となってゆく。その意味で本日の日課は、私たちが礼拝のために集められる時、その真中には主イエスが立ち、「平和」を与えられ、神の息をもって、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と語りかけられていることを伝えている。
主の復活を祝うこの季節がめぐってくる時、私たちは、復活の命は十字架の死を乗り越える力であることに、常に立ち返ります。そしてこの復活祭に続く季節、主イエスの十字架と復活の命を受け取った私たちは、自分たちもまた新しい命を与えられていることに、今一度立ち返るのである。
2015年4月16日木曜日
[説教要旨]2015/04/05「あの方はここにはおられない」マルコ16:1-8
主の復活
初めの日課 イザヤ書 25:6-9
第二の日課 コリントの信徒への手紙一 15:1-11
福音の日課 マルコによる福音書 16:1―8
主イエスの復活の喜びを分かち合うために今日ここに集っている。本日の福音書であるマルコ福音書では、他の福音書に比して極めて短い、やや乱暴とも言えるような復活の出来事が報告されている。そこではただ、「墓は空であった」ということが告げられる。単純でありながら、この物語は非常に重大な矛盾を含んでいる。なぜならば、空の墓を発見した女性たちは「誰にも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」という報告をもって、福音書は結ばれているからである。もし彼女達が本当に誰にも何も言わなかったのだとすれば、この福音書は書かれるはずがないことになる。したがって、結果としては、この出来事は彼女たちだけの秘密には留まらず、多くの者によって共有されたことが、大前提となっているのである。そのことはつまり、「キリストは共におられる」という体験をした者達がいたことを意味している。自分達に先立ち、導き、自分達を閉じられた部屋から押しだしてゆかれるキリストが自分達と共におられる、という経験があったがゆえに、女性たちが恐ろしさゆえに黙っていたとしても、それを彼女達は自分達の秘密に止めておくことはできなかったのである。
女性たちは「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われていた通り、そこでお目にかかれる。」という言葉を聞く。「先にガリラヤへ行かれる。」というのは、時間的に早くという意味で訳されているが、実際には、「先だち導いて」という空間的な意味でも解釈できる。そう受け取るならば、「かねて言われていた通り、あの方は、あなたがたを先立ち導いてガリラヤへ行かれる。」という意味に受け取ることも出来る。
最初の教会は都エルサレムで始まったとされているが、マルコ福音書は、敢えてガリラヤへ向かうことを伝えている。ガリラヤとは、都によって収奪される土地、貧しく弱い者達が、あえぎながら生きなければならない地であった。そしてそここそが主イエスの地上において神の国の到来を宣べ伝え、癒し、与え、祈った地であった。その意味でガリラヤへ向かうということは、神の国の福音の宣教へと向かうことそのものに他ならなかった。そして弟子達は、かつて主イエスがなされたと同じように、自分達が神の国の福音を伝え、苦しむものと共に苦しみ、喜ぶものと共に喜び、分かち合い、支え合う時、そこに主イエス・キリストが共におられる、という決定的な体験をすることとなったのであった。墓は空であり、「あの方はここにはおられない」という喪失の体験を超えて、あの方は「わたしたちを先立ち導いてガラヤへ行かれる」という体験が自分のうちに起こった時、その二つの体験を結びつけるものが「復活」という出来事であることを、彼らは見出したのだった。
主の復活の出来事はこの後、教会を形作る。その教会は、この地上のさまざまな帝国が栄え滅び去る間も姿を変えつつ今、私たちのもとへと続いている。それはまさに、ここにはおられないはずの主が、私たちと共におられ、私たちを先立ち導き、ガリラヤへと押し出して続けているからなのである。
何も無いところから出発する時に、私たちは、十字架の死から甦られたキリストが、私たちと共にいつもおられることを知る。イースターの喜びとは、私たちを先立ち導かれるキリストが、何もないところか出発する私たちと共におられるという喜びに他ならない。
[説教要旨]2015/03/29「本当に、この人は」マルコ15:1-47
四旬節第6主日
初めの日課 イザヤ 50:4-9a
第二の日課 フィリピ 2:5-11
福音の日課 マルコ 15:1―47
今週私たちは受難週を迎える。本日は礼拝の始めに枝の典礼として11章のエルサレム入城の箇所を読んだ。主イエスのエルサレム入城は歓呼をもって迎えられるが、それは人々が待ち望んでいた新しい王メシヤの姿を指し示している。しかしその真の姿は、人々の目にはまだ隠されている。主イエスが真の救い主であることが明らかになるのは、エルサレムでの十字架の出来事を通してであった。
本日の礼拝では枝の典礼に引き続いて、15章全体を読み、主イエスの受難と死の出来事を憶える。この物語では主イエスの称号が様々に言い表されている。判決を下す権威を持つローマ総督ピラトが尋問する時、主イエスは「ユダヤ人の王」と呼ばれる。ピラトが群衆に対して、主イエスの釈放について問いかける際も、主イエスは「ユダヤ人の王」と呼ばれているが、問いかけられた人々は、その「王」を拒否し続ける。その後、兵士達に引き渡され、暴力に蹂躙される間も主イエスは「王」と呼ばれ続ける。そして何よりも、十字架につけられるその罪状書きはまさに「ユダヤ人の王」というものであった。ピラトやローマ兵から見るならば、ユダヤはローマ帝国の属州に過ぎず、自分達こそが支配者であり、したがって自分達以外には真の意味での支配者=王など存在しない。ましてや、本来であれば「王」は政治権力を持つ存在であるはずなのに、彼らの前に立たされた男は、弟子達にすら見捨てられた哀れな力無き存在でしかない。受難物語の中で、「王」という称号と、主イエスのその外見は益々乖離していくばかりである。政治的・軍事的な力を持つ者達に加えて、さらにユダヤの宗教的権威者達もまた十字架につけられた主イエスを「メシア、イスラエルの王」と言ってあざ笑う。権威を持つ者達にとって、十字架の上から降りることの出来ない無力な存在など、神の遣わされたメシアとして認めることことは出来なかった。
一方の主イエスは、ピラトの「お前がユダヤ人の王なのか」という尋問に、「それは、あなたが言っていることです」と答えられた後は、十字架の上で叫ばれるまで沈黙を通され、その苦しみに身を晒し続けられる。それこそ、主イエスが著そうとされる王・メシヤの姿であった。主イエスが王であるのは、人々が期待し思い描いたような姿で力を発揮するからなのではなかった。むしろそれは、イザヤ書が描く「苦難の僕」の姿に他ならなかった。
15章の終わりで主イエスが大声をあげて息を引き取られると、神殿の最も聖なる場所を人の目から覆っていた垂れ幕が引き裂かれる。それは隠されていた最も聖なるものがその姿を人々の目に現したことを意味した。その出来事と共に、十字架の傍らに立っていた百人隊長はは、「本当に、この人は神の子だった」と語る。それがはたして、信仰告白だったのか、それとも嘲笑の言葉だったのか、それはこの言葉を受け取る人によって変わるであろう。それはピラトの言葉に「それはあなたが言っていることです」と主イエスが応えられたのと同じである。しかし、私たちは今や、最も聖なるものが、私たちの目に明らかとなったことを知っている。私たちにとって、十字架から降りることなく、死の苦しみを受けた方こそが、真の救い主メシヤ、真の平和の王キリストであることを知っているからである。本日から始まる聖週間を、主の受難を、そしてまたやがて来る復活の時を憶えて歩みたい。
[説教要旨]2015/03/22「一粒の麦が地に落ちて」ヨハネ12:20-33
四旬節第5主日
初めの日課 エレミヤ 31:31-34
第二の日課 ヘブライ人への手紙 5:5-10
福音の日課 ヨハネによる福音書 12:20-33
本日の物語は、過ぎ越の祭りの時に合わせて主イエスが都エルサレムに上り、都に迎え入れられた直後の出来事として語られている。さまざまな奇跡をなしたこのイエスという男を、ギリシア人達もが関心を持ち「イエスを見たい」と思う。その期待に対して主イエスが語ったのは「人の子が栄光を受ける時が来た」という言葉であった。しかし「栄光を受ける時が来た」という言葉に続いて主イエスが語るのは、「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ一粒のままである」であった。「栄光の時」というならば、人々の期待通りの道筋を通り、その期待を着実に実現し、強く大きくなっていく、そのような「時」を思い描いていたことだろう。しかし、主イエスが語られる「時」は、人々が期待する「栄光の時」とはおよそかけ離れた「地に落ちて死ぬ」ということであった。
続いて主イエスは語られる。「だが死ねば多くの実を結ぶ」。失うことによってこそ、多くの実が結ばれる。その様な時がまさに今やってくる、そのように主イエスは語られる。一粒の麦が死ぬということ。それは、農村文化の中では、一粒の麦がそのもともとの形を失ってしまうということを意味していた。たしかに、麦は土に落ちて、もとの形を失うこととなる。しかし、季節が巡ると形を失った麦は成長し、実りをもたらすこととなる。今ある形が失われること、今自分が知っている価値が失われること、それは私たちの目から見るならば、損失であり、価値無きことである。しかしそうであるからこそ、豊かな実りをもたらす時が来るということを、主イエスは語られる。
そしてまさにその「時」が、主イエスが都エルサレムで十字架において処刑され、その死から甦られたことによって私たちのもとにやってくることとなる。それはまさに、神によって備えられた栄光の時、主イエスが、十字架へとかかるその時が来たことを主イエスは語る。それは、私たち人間が期待し、考えるような「栄光の時」ではなく、むしろ失うことを受け入れる時であった。失われることが、多くの実を結ぶこととなる。それは、私たち人間が思い描くような、過ぎゆく時の内には起こりえないことである。しかし、主イエスの出来事は、私たちの思いを超えたところで、新しい命を創り出す時となった。そして、新しい命出来事は、決して過ぎゆくことのない時として、今も、私たちのところにおいて起こる、そのような時なのである。たしかに、主イエスの十字架とは、人の目から見るならば、期待外れでありお粗末な結果でしかない。それはやがて、人々の記憶の彼方へと追いやられ、忘れ去られてしまうような出来事であるようにしか見えないであろう。けれども、その十字架の出来事は、まさに、私たちの思いを遥かに超え、時代をこえ、場所をこえ、全ての人の一人一人のその人生へと働きかけることの出来るような、そのような時となったのである。
私たちも今、主イエスの十字架を憶えて、復活を待ち望む「時」を過ごしている。私たちの思いを遥かに超えて、希望の光に満ちた「時」が私たちのもとにやってくる。その光は、私たちを取り囲む闇を打ち負かされ、私たちに真の命の実りをもたらされる。