2014年10月18日土曜日

ルーテル三鷹教会・ウェスト東京ユニオンチャーチ合同礼拝のご案内[2014/11/02]

ルーテル学院大学愛(めぐみ)祭が行われる11/2(日)はルーテル三鷹教会とウェスト東京ユニオンチャーチとの合同礼拝となります。

2014年11月2日(日)10:30より ルーテル学院大学チャペルにて

お気軽野ご参加下さい。

[説教要旨]2014/10/12「全ての人への招き」マタイ22:1-14

聖霊降臨後第18主日

初めの日課 イザヤ書 25:1-9 【旧約・1097頁】
第二の日課 フィリピの信徒への手紙 4:1-9 【新約・ 365頁】
福音の日課 マタイによる福音書 22:1-14 【新約・ 42頁】

21:23以下で祭司長や長老達たちが「何の権威でこのようなことをしているのか」と、神殿の境内で人々を教える主イエスに問い糾したのに対して、主イエスは3つの「天の国についてのたとえ」によって応えられ、本日の日課はその3つめにあたっている。一つ目のたとえでは洗礼者ヨハネについて、二つ目では主イエスご自身の受難について触れられている。そして本日の日課である3つめでは、使徒達の働き、教会の在り方について触れられることとなる。
譬えではしばしば神は王の姿で物語られるが、ここでは王の催す王子の婚宴のたとえが語られる。王は、王子の婚宴に招かれていた者たちに、使いのものを派遣して呼びに行かせるが、彼らは王の呼びかけに応えない。王の呼びかけを無視した後の行動としてここで語られているのは、彼らの日常生活であった。彼らにとって、王の呼びかけは自分達が既に手にしている財産を保持する以上には、重要性をを持ってはいなかった。彼らにとっては、自分自身の思い通りに計画が進むことの方が遙かに重要であった。しかし、自分の計画を変えることを拒み、呼びかけにも応じなかった結果、彼らは逆に自分の持てる全てを失うこととなった。
一方で、宴席には予想外の者たち、すなわち「招かれなかった者たち」がやってくる。彼らは町の大通りを歩いていただけの者たちであり、それはおよそ、雑多な、まとまりのない、集まりであった。しかし、その雑多な人々と共に祝宴は始まることとなる。このたとえが語る祝宴とは、主イエスがこの地上で実現してこられた食卓の集まりであり、それはまた天の国における祝宴の先触れとして、教会とはそのような場とであるはずということが、ここで問いかけられている。たしかに今、教会に集う私たちは、「ただ大通りを歩いていた」に過ぎないような、天の国祝宴に招かれるにふさわしいような、敬虔さも知識も名声も力も無いものでしかない。けれども、そのような私たちを、主は招かれているのである。
たとえの終わりでは、礼服を着ていない者が宴の席から放り出される様子が描かれるが、通りを歩いていたところ呼び集められたのに、礼服を着ていないといって咎められるというのは、あまりにも理不尽で不可解な話である。しかし敢えてその意味を問うならば、神の宴に招かれた者、その先触れとしての教会に集う者は、そのその雑多でまとまりのない宴を、その全存在をもって喜び祝わなければならない、ということなのである。この雑多な集まりの中にこそ、天の祝宴の先触れがあることを、私たちは希望とし続けなければならないのである。パウロは語る。「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」(フィリピ4:4?7)
私たちは今、世界のいたるところで、キリストのもとで教会に集まっている。この教会という雑多な祝宴を私たちが喜び祝うとき、神の平和は私たちに与えられるのである。

[説教要旨]2014/10/05「捨てられた石が」マタイ21:33-46

聖霊降臨後第17主日

初めの日課    イザヤ書 5:1-7    【旧約・ 1067頁】
第二の日課    フィリピの信徒への手紙 3:4b-14    【新約・364頁】
福音の日課    マタイによる福音書 21:33-46    【新約・ 41頁】

本日の福音書では、先週につづいて、エルサレム入城後に、神殿を舞台にして主イエスとユダヤの宗教的権威を持つもの達との間でのやりとりが続いている。本日のたとえでは「石」と共に、旧約に登場する「ぶどう園」のモチーフが用いられる。それは本日の旧約の日課であるイザヤ5章を彷彿とさせる。旧約では、ぶどう園とは神の国を受け継ぐ民イスラエルの象徴でもあった。いのちと愛の源である神は、その民の間で、不正ではなく正義が支配し、すべての人々の、とくに最も貧しく弱い人々の命と尊厳と権利が守られることを望まれる。正義と命の尊厳こそが、主が植え育てたぶどう園がもたらさなければならなかった実であった。言うならば、預言者が語る「ぶどうが良い実を結ぶ」ということは、公正な世が確立すること、つまり弱い者が虐げられ排除されることなくその命が守られる世界、人としての尊厳が貶められることなく、互いに尊重される世界が実現することであった。
本日の福音書のたとえでは、ぶどう園を借りた農夫たちは正義を実践せず、命の尊厳を守ろうともしてはいない。そこではただ、自らが手にしているものをいかにして一時の間失わないでいるか、だけが最優先事項となっている。短期的な利益を追求するのであれば、農夫達の判断は合理的である。しかし、神の救いの歴史が実現してゆくその長い長い道筋の中で彼らの価値基準を見るならば、今あるものを失うことを恐れ、不正義と抑圧を選び取ることはあまりにも愚かである。主イエスと対峙する宗教的権威者たちは、自らの正義を疑わなかった。しかし、彼らの正義は、一時の彼らの面目と権益を固守するものであることを、この一連の問答の中で主イエスは厳しく問い詰めてゆく。権威を持つ者達と、主イエスとの間の決別は決定的となってゆく。
この後マタイ福音書では、過ぎ越祭の直前の箇所(25:31−46)で、貧しい人に食べ物を与えないことはキリスト自身を否定することである、という譬えが語られることとなる。そこでは、キリストを受け入れ、キリストに従う者になることは、キリストからいのちを受け、そしてその命を分かち合い、与え合うことに他ならないことが語られる。
神殿で宗教的権威を持つ者達と対決する主イエスは、この後に続く、十字架と復活の出来事によって、その命を私たちと分かち合われた。だからこそ、主イエスの命を与えられ、主イエスの後に続く私たちは、この地上において、新しい永遠の命に向かって、正義と命の尊厳を実現する道を既に歩んでいる。それは確かに、今は報われることもなく、失うことを余儀なくされるかもしれない。けれども、まさにその時、主イエスは私たちと共に歩まれているのである。
本日の使徒書であるフィリピ書3章でパウロはこう語る。「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。」
私たちもまた、既に主イエス・キリストに捕らえられ、十字架の道を歩んでいる。それはまた、復活の命、新しい永遠の命、正義と愛とが支配する神の国に生きる命への道でもある。

[説教要旨]2014/09/21「この最後の者にもあなたと同じように」マタイ20:1-16

聖霊降臨後第15主日

初めの日課    ヨナ書 3:10-4:11    【旧約・ 1447頁】
第二の日課    フィリピの信徒への手紙 1:21-30    【新約・362頁】
福音の日課    マタイによる福音書 20:1-16    【新約・ 38頁】

本日の福音であるたとえ話では人の思いと業に対して、神の思いと業が鋭いコントラストによって語られている。本日の福音書の日課である譬えでは、あるぶどう園の主人が労働者を雇い入れるために広場へと出て行く。彼は「ふさわしい」賃金を支払う約束で、夜明け頃(おそらく朝6時頃)から3時間おきに夕方5時にいたるまで労働者を雇い、ぶどう園へと送る。日没の頃(おそらく夕方6時頃)、賃金を支払う際に主人は全ての人に同じように1デナリオンを支払うが、これに対して朝一番から働いていた者たちは不平を言う。しかし主人は「友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。」「それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。」と語る。ここで展開されている事柄は、私たち人間の考える正論からは大きくかけ離れている。同じ種類の仕事であるのに、1時間の労働と丸一日の労働が同じ報酬であるということは正しいものとは考えられない。もちろん、今日の社会において、それぞれの生活を守るために、労働に対する不当な扱いに抗議することは必要であることは言うまでもない。しかし、「天の国は次のようにたとえられる。」という言葉によって始められるこの譬え話は、私たちに人の思いを超えた、天の国の在り様を垣間見せる。
当時の一人の日雇い労働者の平均年収は約200デナリオンと考えられ、それは6人の家族が生存していく最低限の金額であったと言われている。したがってこの1デナリオンという金額は、単に一日の労働の対価であるだけでなく、家族の命を支える値でもあった。すなわち、ぶどう園の主人が依拠する正しさの基準、それは「全ての者の命が救われる」ことにあった。救いの恵み、それは何よりも、後へと追いやられ、他に先んじることが出来なかった者、持っていたはずのものを失ってしまった者、失意と悲しみの中にある者にとって、なによりも大きな喜びとなる。この譬えで語られる、天の国の「正しさ」の基準とは神の限りのない恵みに基づくものであった。一方で、不平をつぶやくものたちに、ぶどう園の主人は「友よ、あなたに不当なことはしていない」と語りかける。ここで「友」とされている言葉は同労者への呼びかけに近い表現である。しかしこの表現はこの後、22:12では礼服を着ないで婚宴に参加した者への呼びかけとして、また26:50では主イエスを逮捕しようと近づくユダに対する呼びかけとして用いられている。言うならば、主イエスの呼びかけを受け入れることの出来ない者に対して、それでもなお呼びかけ続けるという思いが込められている。「不当なこと」とはつまり「ふさわしい賃金」と語られた、その「ふさわしい」ことではないことであり、つまり神がその限りのない慈しみをもって「この最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。」というのはむしろふさわしい、正しいことではないか、と呼びかけている。私たちが、主イエスの「友よ」という呼びかけに応える時、私たちは、後へと追いやられ、奪い取られた者へと思いを合わせ連帯する事が出来る。そしてその時、私たちは限りの無い恵みと救いの喜びを共に分かち合う者とされるのである。

[説教要旨]2014/09/14「赦されて生きる」マタイ18:21-35

聖霊降臨後第14主日

初めの日課 創世記 50:15-21 【旧約・92頁】
第二の日課 ローマの信徒への手紙 14:1-12 【新約・ 293頁】
福音の日課 マタイによる福音書 18:21-35 【新約・ 35頁】

本日の日課では、「罪を犯したものを、何回赦すべきでしょうか、7回まででしょうか」とまずペトロが主イエスに問いかける。ペトロにしてみればこの7回というのは常識的な限度を大きく超えていると、誇るべき数字であっただろう。しかし、それは赦しというものの本質を問うものになっていないことを、主イエスは「7回どころか、7の70倍まで赦しなさい」と答えによって示される。それはもはや数値が問題ではなく、いわば数え上げることの出来る、自分の生きている世界の範囲で自らの正しさを証明しようとする、人間の発想とその限界に対して、限界など無い天の国の価値観が示されていると言える。それは続く譬えにおいてより際立たせられる。
このたとえでは、ある王の家来に1万タラントンの負債があるということが発覚する。1万タラントンとは国家予算の何年か分にも相当するような途方もない金額であった。それはもうこの金額が、現在の価値に換算することそのものが、無意味となるほどの負債であった。ここで最も重要なことは、この負債が赦される・免除されるということにある。人間の常識と発想を遙かに越えた負債が、人間の常識をやはり遙かに越える神の憐れみ、神の無制限の愛によって赦されることをこのたとえの前半部分は語る。
たとえの後半部分で、非常識な額の負債を免除された家来は、100デナリオンの貸しのある仲間を見つける。100デナリとはおよそ3ヶ月分の給与に相当すると考えられる。それはたしかに決して小さい金額ではない。したがって、この家来がこの仲間の返済を迫って訴えることは、正当な権利であると言うことができるだろう。その意味で、この家来の態度は「正しい」態度だと言える。しかし、前半部分からの続きで、この後半部分を読む私たちには、この家来の「正しい」態度の持つ限界が見えてしまう。彼の態度は「正しい」にも関わらず、その正しさによって生み出されたものは不和と対立だけであり、弱い者がさらに弱い者を叩く、負の連鎖でしかないことを、このたとえ話は私たちに厳しく訴えかける。
マタイ18章は、教会がこの地上において表れた天の国の先触れであるためには、どのようにあるべきかを語る。教会という、弱い人間の集まりに過ぎない存在がそのようなものとなること、それはまさに人間の常識と発想を遙かに超え出たものに他ならない。人間の思いにすぎない「正しさ」が生み出す不和と対立が、神の国の先触れとして神の赦しと和解の業に取って代えられるような場所に教会がなりうるとするならば、それはまさに、そこに集う者達の中心に主イエスが共におられるからに他ならない。主イエスが共におられる時、私たちは自らの思い描く「正しい」世界にしがみつくことから逃れ出ることができるのである。
神は、この神の赦しが私たちに満ち溢れるために主イエスとその十字架を送られた。まさにその意味で、教会が主イエスによって建てられるということ、その十字架を基とするということ、それは3回か7回かと問うような人の思いではなく、無制限の神の愛こそが教会を作り上げるのだということに他ならないのである。

[説教要旨]2014/09/07「キリストと共にある群れ」マタイ18:15−20

聖霊降臨後第13主日

初めの日課    エゼキエル書 33:7-11    【旧約・ 1350頁】
第二の日課    ローマの信徒への手紙 13:8-14    【新約・293頁】
福音の日課    マタイによる福音書 18:15-20    【新約・ 35頁】

マタイ福音書は二度目と三度目の受難予告とに挟まれた部分で教会の在り方について触れることで、教会の本質を十字架へと向かう道にある主イエスと結びつけて理解しようとしている。現在の教会は確かにこの地上にある人間の集まりに過ぎない。しかし同時に、来たるべき天の国の先触れでもあり、そのようなものとしての教会はこの地上のさまざまな制約と抑圧の力をはねのけ、そこに集う私たちを新しい永遠の命が約束された天の国へと結びつける場である。その事を伝えるためにマタイ福音書は、私たちの生きるこの地上と天の国とを結びつける道筋と、主イエスが十字架と復活へと歩む道を重ね合わせて物語る。地上の集団としての教会は確かに様々な制約、限界があり、またこの世の抑圧や憎悪から決して完全に解放されているわけではない。しかし十字架へ歩む主イエスの後に従う弟子の集団である時、教会は天の国の先触れとなることをマタイ福音書は伝えようとしている。
そこでは様々な課題も描かれる。18:1では弟子達が主イエスに天の国で一番偉いのは誰かと問う。それは天の国の先触れとしての教会の中での権威がどここにあるかを問うことでもある。しかし、主イエスはその問いに対して、子どもという、権威とは無縁の小さく弱い存在を示す。それは、教会という場において小さく弱いことは決して誤りではなく、むしろそれを尊ぶことこそが、天の国の先触れである教会の本質であることを示すものであった。続いて、これらの小さな者の一人をつまずかせる者についての警告、そしてこれらの小さな者を一人でも軽んじないようにという戒めが語られる。それらは、強さと正しさをこそ求めるこの地上にあって、弱さを自らの内に包摂し続けることの中に信仰の共同体としての教会の本質があることを伝えている。
そうした、弱さを包摂する共同体の在り方を語る中で、本日の日課が語られる。前半の15-17節は、宗教団体にはよくある、意見の異なるものを処分するために作られた掟とも言える。しかし、ここではそれだけでは終わらずに18節以下が続いていることにむしろ注目しなければならない。紀元2世紀ごろにまとめられた、ミシュナーと呼ばれるユダヤの教師達の教え集には、この18節以下とよく似た文言が納められている。「ふたりの者が同席し、両者の間に律法の言葉が話題になるときには、両者の間には偏在者(神の臨在)がある」というものである。これらはたしかに非常によく似ているが、一点、決定的に異なる部分がある。それは、律法ではなく、「わたし」すなわち「主イエス」が間におられるということである。この地上にある限界にもかかわらず祈りが合わせられる教会の場には、様々な弱さと限界を抱えた私たち人間を結び合わせられる主イエスが共におられることを福音書は語る。
傷つけ憎み合わずにはいられない私たちを結び合わせるために、主イエスは世に与えられた。そしてその主イエスは、私たちを結び合わせるために、その弱さと絶望の極みである十字架へと進み、そして、そこから新しい永遠の命への道を開かれた。教会もまた人間の集団である以上、そこには不信、裏切り、過ちがある。しかしたとえそうであったとしても、その弱い人間の集まりに過ぎない私たちの群れのただ中に、絶望と不信の中から甦られた主は共におられ、私たちを結び併せてくださるのである。

[説教要旨]2014/08/31「イエスの後に従って」マタイ16:21-28

聖霊降臨後第12主日

初めの日課 エレミヤ 15:15-21 【旧約・1206頁】
第二の日課 ローマの信徒への手紙 12:9-21 【新約・ 292頁】
福音の日課 マタイによる福音書 16:21-28 【新約・ 32頁】

4:17-16:20では主イエスがメシアとして広く群衆に対して教えと活動を展開する様子が描かれてきた。その教えと業が人々の間で様々な思いを引き起こす中、主イエスは弟子達にご自身について問いかけ、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えるペトロはに対し、祝福と共に教会の権威を託す。しかし、その直後である本日の箇所では、そのペトロに対して厳しい叱責を加えている。この落差の原因はいったいどこにあるのかだろうか。その原因は、21節「このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた」ことにあると言える。マタイ福音書では、この箇所から20章でエルサレムへと入られるまでの部分で、主イエスが十字架において苦難を受けられる存在であることを語られ始められること、主イエスの歩みが次の段階へと展開していることをを強調している。
マルコ福音書に準じてマタイ福音書も、3度に渡ってご自身の受難と復活について弟子達に語られているが、興味深いことに、2回目と3回目の受難と復活の予告の間では、マルコ福音書には無い「教会」の在り方についての教えが語られている。福音書の中で「教会」という言葉は、マタイ福音書においてしか使われていない。マタイ福音書は、教会の在り方について、敢えて、十字架において苦難を受けられるキリストに結びつけてその物語を編纂したと言える。それは、この福音書の著者が、十字架へと向かわれた主イエスにこそ教会の本質を見出していたからに他ならない。
おそらくペトロにとって、主イエスがメシアすなわち世の救い主であるということは、主イエスが語るような、世の権威を持った者達から否定され、その計画が全て挫折し、悲惨な運命を辿ることであってはならなかった。だからこそ、主イエスが、ご自身の挫折と死の運命について語られ始められた時、主イエスを連れ出して諫めずにはいられなかったのであろう。しかし、そのようなペトロに対して主イエスは厳しく叱責する。この叱責は直訳するならば、「私の後へと退け、サタン」というものである。主イエスが諫めたのは、人の思いを十字架に向かう主イエス後へと退けられるためであった。その意味で、十字架について語り始められた主イエスは、ペトロの信仰告白を取り消そうとしているのではなく、むしろその信仰告白を受けたからこそ、ペトロに対して「後に退け」という言葉を与えられることで、ペトロに託した教会に対して、その本質を示したと言うことが出来る。ペトロへの叱責を通して示される教会の本質とは、人が自らの思いと正しさを最優先するような在り方ではない。むしろそれは、自分の十字架を背負って「主イエスの後に従う」ことなのである。自分の十字架を担うということ。それは、自分が中心の心地よい場所ではなく、むしろ不快であり、避けたいもの、自らの挫折と失望の中を歩むことに他ならない。しかし、主イエスは、その十字架を通して、新しい永遠の命への道を私たちに開かれたのである。私たちが、自らの十字架を背負って、失望と悲嘆の道を歩む時、その道は主イエスが先立ち、私たちと共に歩まれる道なのである。