2010年7月5日月曜日

LAOS講座の学びのご案内(第3回) [7/25]

7/25(日)礼拝後、LAOS講座の学びの第3回を行います。
テキストは第7号「宣教と奉仕の理論の実際」を用います。
今回は、本テキストの著者である江藤先生にご担当いただきます。
テキストをお持ちでない方はこの機会に是非お求め下さい。(1冊200円、全9巻セット1500円)


ルーテル・キャンパス・ミニストリ月間のご案内 [7/4,11,18,25]

7月、ルーテル三鷹教会では「ルーテル・キャンパス・ミニストリ月間」として、ルーテル学院大学・日本ルーテル神学校の教員の先生方に、主日礼拝のメッセージをご担当いただきます。
各日曜の担当者とメッセージタイトルは下記の通りです。
礼拝は、毎週日曜午前10時半より、ルーテル学院大学チャペルにて行われています。

この機会に是非礼拝に足をお運び下さい。

7月4日(日)説教「いのちの歩みに」石居基夫師
7月11日(日)説教「キリスト者の自由」鈴木浩師
7月18日(日)説教「隣人として生きる」河田優師
7月25日(日)説教「もてなすことと聴き入ること」江藤直純師


ポスター(PDF)はこちらから 

[説教要旨]2010/6/20「もう泣かなくともよい」ルカ7:11-17

聖霊降臨後第4主日

初めの日課 列王記上 17:17-24 【旧約・ 562頁】
第二の日課 ガラテヤ 1:11-24 【新約・ 342頁】
福音の日課 ルカ 7:11-17 【新約・ 115頁】

主イエスは、カファルナウムに続いてナインの町へと赴かれる。ナインは、主イエスの故郷ナザレから10km弱離れた、ガリラヤ地方の町の一つであった。主イエスは、「ナザレのイエス」という呼び方とともに、「ガリラヤのイエス」とも呼ばれた(マタイ26:69)。ガリラヤという名前は、ヘブライ語では「輪」「周辺」「地域」という意味をもつ言葉に由来している。この地域は、豊富な水を備えた肥沃な土地であり、古代から入植が進んでいた。このためにガリラヤ住民は外部世界との交流から刺激を受けていたため、南部の「厳格なユダヤ人」からは「異邦人のガリラヤ」とも呼ばれ、あるいは「(ガリラヤの)ナザレから何か良いものが出るだろうか」また「ガリラヤからは預言者はでない」と言われていた。しかし、この周辺の地であるガリラヤ地方こそが、主イエスの地上での宣教の業の原点というべき場所であった。主イエスはこのガリラヤで様々な「壁」をその言葉を持って打ち破られたのである。
百人隊長の僕を癒しの出来事は、主イエスの言葉は、ユダヤ人以外にその救いの出来事をもたらした。そして、このナインにおいて、主イエスの言葉は、人の命を脅かす死の力をも打ち破られることになる。これらの壁を打ち破る働きこそが、「来るべき方はあなたでしょうか」と問う、洗礼者ヨハネの弟子達に対して、「言って、見聞きしたことをヨハネに告げなさい」と語られていたことの証しであった。
ナインの町で、主イエスは嘆きと悲しみの深淵にあるひとりの「やもめ」に出会う。古代社会において「やもめ」とは極めて虐げられやすい立場であった。当時の社会では、夫を失い、一人息子を失うということは社会的な死であり、一切の主体的な働きを奪われてしまった存在となっていた。13節で「主はこの母親をみて、憐れに思い」と書かれている。「主」という言葉は、ギリシア語の第一の意味としては「雇用主」「主人」、もしくは一般的な敬語でもあった。しかし、このやもめに向かうイエスは、「憐れむ主」であり、「もう泣かなくともよい」という言葉を告げる「救い主」としての主である。そして、救い主の言葉は、棺に横たわる息子である若者へと向けられる。「若者よ、あなたに言う。起きなさい」(14節)。この主イエスの言葉を中心にして、死の運命が逆転する。主イエスの言葉は、私たちを滅びへと追いやる死の力に抗う力なのである。
この出来事は、ガリラヤだけでなくユダヤの全土に広まることとなる。しかし、それはただユダヤの地だけではない。民族を超え、時代を超え、今私たち自身に対しても、聖書を通して、主イエスを証する出来事となっているのである。その出来事の発端は、一人のやもめという「弱い存在」が救い主としてのイエスの業、すなわち十字架の出来事の先取りを導き出す。それはまさに「神はその民を心にかけてくださった」(16節)瞬間であった。主イエスを証しするということは、その人の強さや能力の高さを示すものではない。むしろその人の弱さを通して、主イエスを指し示すことなのである。

[説教要旨]2010/6/13「ことばのちから」ルカ7:1-10

聖霊降臨後第3主日

初めの日課 列王記上 8:41-43 【旧約・ 543頁】
第二の日課 ガラテヤ 1:1-10 【新約・ 342頁】
福音の日課 ルカ 7:1-10 【新約・ 114頁】

イエスさまは、神さまに祈りをささげるために山へと向かわれた、そこで弟子たちの中から十二人を選んで使徒と名づけられた(6:12-16)。後に十二使徒と呼ばれる弟子たちである。弟子たちと共に山から下りられたイエスさまは、平らな所に立たれて話しをする(平地での説教、マタイでは山上の説教と呼ばれる場面)(6:20-49)。そこでイエスさまは人々の耳を、語られた説教すべて(イエスさまのことば)で満たし後、カファルナウムに入っていかれた。カファルナウムは福音書に度々登場し、イエスさまが宣教の拠点とされた場所である。ここで、ある百人隊長の部下が病気で死にかかっていた。同じ記事が書かれているマタイによる福音書で百人隊長は、イエスさまの前に進み出て直接、部下である僕を癒してくださるように懇願している。それに対して、ルカによる福音書では第三者を通してその癒しを願っている。最初は「ユダヤ人の長老たち」にその役目を託し、役目を託された長老たちは〔7:4〕に記されているように、イエスさまに熱心に願い「あの方は、そうしていただくのにふさわし人です。」と懇願する。それに応えてイエスさまは百人隊長の僕のもとへ出かけられる〔7:6〕。ここから、百人隊長とユダヤ人の長老たち関係、また百人隊長の人物像を窺うことができる。ユダヤ人の長老たちが百人隊長へ向けた信頼を通して、百人隊長がイエスさまへ向けた信頼を、イエスさまは受け取った。そして、百人隊長のもとへ歩み始めた。しかし、イエスさまが百人隊長の家に近づくと、百人隊長は友人たちを使いに出して「わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。」と伝える。部下の癒しを願いながら、自分はイエスさまの前に出るのは相応しくないと語る百人隊長は、「遠くに立って、目を上げようともせず、赦しを願う徴税人の姿」〔18:13〕を思い起こさせる。イエスさまは6章に記されている平地での説教で「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたのものである」と教えている。そのイエスさまのことばが出来事となって、いま百人隊長の前に現れる。イエスさまの言う「貧しい人々」とは、百人隊長や徴税人のように「自分は救いに相応しくない」と思いながら、ただ神の憐れみを待ち続ける人々のことである。百人隊長は友人を通して「ひと言おっしゃってください」と願う。百人隊長は、イエスさまのことばがあれば部下は癒されると信じている。イエスさまが群集の方を振り向いて「これほどの信仰を見たことが無い」とたたえた信仰とは、受けるに値しない自分にもことばが与えられると信じて待つ信仰である。

[説教要旨]2010/6/6「深く掘り下げて」ルカ6:37-49

聖霊降臨後第2主日

初めの日課 エレミヤ 7:1-7 【旧約・ 1188頁】
第二の日課 1コリント 15:12-20 【新約・ 320頁】
福音の日課 ルカ 6:37-49 【新約・ 113頁】

マタイ福音書では「山上の説教」と呼ばれている主イエスの教えは、ルカ福音書では、主イエスは弟子たちと共に山を下りた後に、「平らな所にお立ちにな」り、「大勢の弟子とおびただしい民衆」を前に語られる。主イエスは、選び出された12人と、また多くの民衆とに向かって、貧しい人々への幸いを語り、敵を愛することを教えられたことに続いて、「人を裁くこと」について「人の語ること」について、そして「聞くことと行うこと」について語られる。そこでは、これらの言葉を聞き、これに従うものは「いと高き方の子となる」と語られるが、主イエスの教えと業は、人々とは一線を画した隠遁生活の中で秘密裏に伝えられ、限られた選ばれた者たちのみが体験できる、というものなのではない。それはむしろ、人々が生きる地平において主イエスは同じように生き、まさにその地平においてこそ働く神の力を示されたのである。したがって、12人と多くの民衆ともまた、主イエスと同じ平らな地平に立っている。12人が民衆から一段高いものとしてと選ばれたのではない。12人と民衆の間にはなんら段差は付けられていない。それどころか、主イエスは「目を上げて」弟子たちを見て語られる(20節)。主イエスは、この輪の中で最も低いところにご自身を位置付けているのである。
「盲人が盲人の道案内をすることができようか」という言葉は、マタイ福音書では、主イエスに敵対する都の宗教的権威者たちに向かって語られている。それがここでは12弟子たちと民衆とを前にして語られる。主イエスに敵対する権威者たちと同じ態度を、主イエスの弟子たちも取り得るのである。知らず知らずのうちに、人は自らを他者よりも一段高いものとして、自らの正義を振りかざして他者を裁きうるのである。それは主イエスの教えられる「いと高き方の子」「憐れみ深い者」であることと対照的な姿であった。
むしろいと高き方の子主イエスは「神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分となり、人間と同じ者になられた」のであった。しかも「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死にいたるまで従順で」あった。しかしそうであるからこそ、「神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました」とパウロは語る。(フィリピ2:6-9)。だからこそ、主イエスは最も低いところから、弟子たちにその眼差しを向けられ、語られるのである。主イエスの言葉を聞くということは、主イエス立たれている場所へ、自らをまた低くすることに他ならない。そうであってはじめて「すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえる」(フィリピ2:11)ことができるのである。主イエスの言葉が、本当に生きた神の力として働かれ、私たちを福音(良いメッセージ)によって満たされるのは、私たちが主イエスと同じ低みへと向かうことによってなのである。
「わたしの言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう。それは地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。」と主イエスは語られる。私たちが自らの立つ基を深く、低く掘り下げる時、主イエスの言葉は私たちを固く支えるのである。

[説教要旨]2010/5/30「命と平和の真理」 ヨハネ16:12-15

三位一体主日

初めの日課 イザヤ 6:1-8 【旧約・ 1069頁】
第二の日課 ローマ 8:1-13 【新約・ 283頁】
福音の日課 ヨハネ 16:12-15 【新約・ 200頁】

待降節・アドベントから聖霊降臨祭・ペンテコステまでの間、教会の暦は主イエスの地上での歩みを振り返ってきた。そして一年の後半では、主イエスの教えられた事柄についての聖書箇所が読まれることになる。その境界である本日は、「三位一体主日」と呼ばれている。この主日には主イエスの地上の歩み、すなわち実現する救済史の中の具体的な出来事は特に割り当てられていない。しかし、教会暦の前半と後半を結ぶ日という位置付けは、救いの歴史の出来事、すなわちクリスマス(父の業)、イースター(御子の業)そしてペンテコステ(聖霊の業)の総まとめとして理解し、そして、主イエスの教えに聞くいわゆる「教会の半年」に向けて、聖書がその全体を通して語り伝えている真理を私たちに今一度思い起こさせる。
ヨハネ福音書の告別の説教の中で、主イエスは弟子たちに向かって「真理の霊」について語られる。全段落ではそれは「弁護者」とも呼ばれている。主イエスと地上での別れを体験した後、弟子たちはこの世においてつらく厳しい道を歩まねばならない。闇の世は主イエスを受け入れることが出来ないからである。しかし、来るべき弁護者はその世に対して働きかける力であることを主イエスは語られる。弁護者の力が無ければ、世は主イエスを知り、信ずることができないのである。
続いてさらに、今度は弟子たちに対して、「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない」と語られる。彼らもまた、この告別説教が語られているとき、すなわち弁護者・真理の霊なしには、主イエスが地上で為された事、語られた事のその真の意味について、まだ分からないでいる。
主イエスと共に旅をしてきた弟子たちは、主イエスの働きと教えを間近で見聞きしていた。その意味では、誰よりも精確に理解することができたはずであった。しかし、「イエスが何を語り、何をしたか」ということをどれほど精確に描写しても、それは「分かる」ということには結びつかなかった。それは、弟子たち自身の個人的な体験に過ぎなかった。自分たちが体験した主イエスの業と教えを本当の意味で「救いの出来事」として彼らが理解することができたのは、十字架と復活、主イエスとの再会と別離を経て、「真理の霊が来る」のを待たなければならなかった。
ここで注目すべきは、主イエスは一度も「真理を与える」とは言っていないという点である。真理の霊は、主イエスが父から受けたものを、弟子たちに、そして私たちに「告げる」のである。実に、私たちは「真理」を自分ものとすることなどは出来ない。もし私たちが、あたかもこの私が真理を手にしていると誤解するならば、私たちはあまりに容易に、自分自身を正義として他者を裁き、他者の上に君臨しようとしてしまう。しかし、真理の霊・弁護者は、私たちを真理へと「導く」。それは、この地上で憎悪と敵対との中で悩み傷つく私たちを、命と平和、和解と解放へと導く真理である。パウロは語る。「肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります」(ローマ8:6)。主イエスの真理は私たち人間の義を打ち破り、私たちを救いと解放と命へと導かれる。

[説教要旨]2010/5/23「風が吹いて」使徒言行録2:1-21

聖霊降臨祭

初めの日課 創世記 11:1-9 【旧約・ 13頁】
第二の日課 使徒言行録 2:1-21 【新約・ 214頁】
福音の日課 ヨハネ 16:4b-11 【新約・ 200頁】

本日は聖霊降臨祭、ペンテコステである。ペンテコステとは、50日目(五旬祭)という意味を現すギリシア語であり、ユダヤでは過越祭の2日目から数えて7週目の日に守られた祝祭であった。これは旧約では刈り入れの祭り(出23:16)、七週祭(出34:22)とも呼ばれ、春の除酵祭(過越祭)、秋の取り入れの祭り(仮庵祭)と共に三大祝祭日の一つであった。元来は小麦の収穫を祝う祝祭であったが、後の時代に、この日にシナイ山で十戒が授与されたされたという意義を加えて、律法記念日として守られることとなった。
復活の主イエスが弟子たちの前で天に昇られた後、この五旬祭の弟子たちが一つに集まっている時に、激しい風が吹き、弟子たちの上に聖霊が降る。風、霊、あるいは魂、息、それはギリシア語では同じ言葉で表されるものであり、目には見えないが、何かを動かす力を意味している。そして、この聖霊の風を受けた時から弟子たちによるこの地上での宣教の働きが始まったと、聖書は告げる。それゆえに、キリスト教ではこの日を聖霊降臨の出来事を憶える日とし、またその聖霊の働きによって、「教会」が始まった時であるとした。
聖霊の風を受けた弟子たちは、突然に様々な国の言葉で語り始める。その様子はまるで「新しいぶどう酒に酔っている」ようであると人々は語る。つまり、あまりに多様な言語で語る集団は人々の目には、およそ非常識で、社会規範から逸脱したものとしか移らなかったのである。さらに言うならば、弟子たちが様々な国の言葉で語っていたこと、それは主イエスの十字架と復活についてであった。それは、酔ったような弟子たちの外見以上に、非常識で逸脱したものであった。主イエスは、十字架に死に、そして甦ったということ、それは言うならば、常識的な範疇の中で、人の考える妥当で順当な筋道の中では、決して得ることの出来ない希望と喜びの出来事なのである。無から命を作られる、命の創造主である神のその見えない力は、主イエスとの別れを経験した弟子たちをして、希望と喜びと力とで満たされたのである。
また様々な国の言葉で語りつつも、弟子たちは「一つ」であった。これは、旧約のバベルの塔の出来事とまさに正反対の状況を形作っている。異なる言葉を語る時、一方では混乱と崩壊がもたらされ、他方では一致と喜びと希望がもたらされる。その違いはどこにあるであろうか。バベルの塔の出来事、それは人々が自らの威光と権力を地上に示し、自らの力で天にまで届くことを求めた結果であった。人が己の正しさと理想、そして栄光と威光とを目指すとき、それは必ず不信と争いを招くことになる。そこでは多様性は不要のものであり、排除・抑圧されるべきものである。しかし唯一の理想と権威を目指したその結果もたらされるもの、それは混乱と崩壊でしかなかった。他方、聖霊降臨の出来事において、非常識とも言えるその多様性は喜びの源泉であり、福音を伝える力そのものであった。死から命を創り出される神は、排除と抑圧、不信と争いの中に、喜びと希望とを分かち合い、一致する力を与えられる。聖霊降臨の出来事は、主イエスの十字架と復活を信じる私たちの教会にもまた、喜びと希望を分かち合い、一致する力が与えられていることを伝えている。