2014年1月10日金曜日

2014年ルーテル三鷹教会定期教会総会のお知らせ

2014年のルーテル三鷹教会定期教会総会は2/2(日)礼拝後に行われます。

教会員の皆様は万障お繰り合わせの上ご参加下さい。欠席される場合は必ず委任状をご提出下さい。

なお1/18(土)14時より、総会資料の製本作業を集会所にて行います。皆様のご協力をよろしくお願いいたします。

[説教要旨]2014/01/05「導きの先に」マタイ 2:1-11

顕現主日

初めの日課 イザヤ 60:1-6 【旧約・ 1159頁】
第二の日課 エフェソ 3:1-12 【新約・ 354頁】
福音の日課 マタイ 2:1-11 【新約・ 2頁】

本日はキリスト教会の暦の中で、1年の最初に迎える祝祭日である1月6日の顕現日(エピファニー)である。アドベントからクリスマスにおいては、神の子がこの地上へと下られた、自らを低い者とされたということを憶え、そしてエピファニーとその後に続く季節では、救い主がその力と権威をこの世に現されることを憶えることとなった。
さて、この主の顕現の日にあたっては、東方の国の占星術の学者らが主イエスを伏し拝むために訪れたことを通して、主イエスの王としての権威と力とが世界中に示されたということを思い起こす。この東方から来た者達は「占星術の学者」たちであったとされているので、彼らが星を見て行動するというのは当然ではある。しかし、元来東方の占星術の学者達は、聖書の民、イスラエルの民の外側からやって来たのであり、救い主とは何の接点もない存在であった。いわば、ここで星は、救済史の外側にいた筈の占星術師たちを救い主と結びつけるもの、救い主がどこにいるかということを人間の領域の外から指し示すものとなっている。人間の人生の中では、どれほど努力したとしても迷い道から脱け出すことが出来ずに途方に暮れることは決して少なくない。そのようなとき、生きる方向を見出すことができるのは、私たちの外側から進むべき方向が示されることによってなのである。東方の占星術師達が目指した星の光は、イエス・キリストを知らないもの、それこそ縁もゆかりもないものにも、あるいは道に迷うものの上にも、その光が届いていることを聖書は物語る。
星に導かれてヘロデの待つ王宮にたどり着いた占星術師達は、聖書の言葉に出会う。星の輝きは、彼らを聖書すなわち神の言葉へと導くものであったことがここで明らかとなる。しかし、ヘロデの王宮は彼らが目指していたものではなかった。皮肉なことに、聖書の言葉は、彼らの目指すところは彼らが予想した場所には無いこと、その外側にあることを語る。
聖書の言葉によってさらに進むべき道筋を示された彼らは王宮を離れ、ついに目指す救い主と出会う。しかしやっと辿り着いた彼らは、その訪ねた相手から、ねぎらいの言葉すらかけられることはなかった。そこにいたのは貧しい夫婦と生まれたばかりの無力な幼子だけであった。そこは、いわば無力と弱さが支配する場所であり、学者達が王として訪ねた相手は客観的にはむしろ援助を必要とするような者たちであった。それはまるで、何の救いもないようなこの世の悲惨な現実であった。けれども、この出来事こそ、救い主の降誕が私たちに語りかける福音のメッセージであった。なぜならば、救い主はどこにいるのかという問いへの答えとして、救い主は、徹底して私たちと同じこの地上に、そしてまさに無力さと弱さのなかにおられるということをこの出来事は私たちに示しているからである。地上の無力のただ中に、救い主はおられるのである。無力さの中に与えられた救い。そのメッセージは、この無力な赤子が、やがて、「ユダヤ人の王」という罪状とともに、人間の目には挫折と絶望としか映らない、十字架の死へと向かわれることとなる時に、より一層明らかなものとなって私たちに示される。

2014年1月9日木曜日

[説教要旨]2013/12/29「嘆きの声の中で」マタイ 2:13-23

降誕後第1主日

初めの日課    イザヤ 63:7-9    【旧約・ 1164頁】
第二の日課    ヘブライ 2:10-18    【新約・ 402頁】
福音の日課    マタイ 2:13-23    【新約・ 2頁】

クリスマスの祝祭の期間、教会の暦は奪われ失われた命について思いを向ける。12/26は殉教者ステファノの日、そして12/28には本日の福音書と関連して幼子殉教者の日とされている。つまりクリスマスの祝祭は本来、既に衣食住と基本的な生命の安全が守られている私たちが、より多くの物によって満たされることを祝う時なのではない。むしろそれは、持っている僅かなもの、あるいはたった一つの命すら奪い取られ、何も残されていない者にとって、唯一与えられた希望の出来事なのである。
本日の福音書では、天使から告げられたヨセフが、ヘロデ大王の暴虐から逃れるために、マリアそして幼子の主イエスを連れてエジプトへと旅立つ出来事が描かれている。外にはローマ帝国があり、内には様々な反乱分子を抱えたその動乱の時代を、自分を脅かす存在は、肉親であろうとも容赦なく粛正することで、ヘロデ大王は30年余りもの間君臨し続けた。それはいわば、自らが手にした物を失うまいとし続ける者が辿り着く姿であった。このヘロデの暴虐から、ヨセフは主の使いによって道を示され、逃れることとなる。
この出来事は見ようによっては、幼子イエス・キリストさえいなければ、他の命は奪われなかったのに、なぜあいつだけが生き延びたのか、そのように捉えることも決して不自然ではない。けれども福音書の物語は、別の視点からこの物語を語る。多くの命が理不尽に奪われる中で、残された命があったこと。つまり死の力は、全ての希望を抹殺することはできはしなかったということ。それによって新しい永遠の命への道は、繋ぎ止められたということを、語るのである。つまり、主イエスこそが、理不尽に奪われ、失われる命にとっての、悲しみと嘆きの声の中で残された、最後の希望であることを、聖書は物語るのである。
本日の物語のもう一つの焦点である、エジプトへの逃避行に目を向けたい。ヨセフは住み慣れた場所に戻ることなく、見知らぬ土地エジプトへと旅立ちます。それは、ヨセフ個人自身にとって大きな損失であり、人生の危機であった。しかしかつてイスラエルの民を、抑圧から脱出させ、解放へと導いた力は、今またヨセフにも働き、どのような状況の中でも、彼を見捨てることなく、見知らぬ土地で生きることを支えるのである。大きな損失を伴ったヨセフの旅立ちは、しかし彼一人だけの旅立ちではなかった。なぜなら、この地上に新しい契約として与えられた、救い主イエス・キリストが共にいるからである。それは、全ての民へと開かれた救いの歴史の始まりであった。
悲しみと嘆きの声は、現代のこの世界を覆っている。しかしその中で主イエスが共におられるという、クリスマスの喜びは語られる。悲しみと嘆きの声の中で、ヨセフが天使によって神の言葉を聞き、未知の世界に歩み出した時、新しい救いの歴史が始まった。私達もまた、神の言葉によって導かれ、新しい時を歩み出すことが出来るのである。主の導きを憶えて、新しい年を迎えたい。

[説教要旨]2013/12/22「神は我々と共におられる」マタイ1:18-25

待降節第4主日

初めの日課 イザヤ 7:10-16 【旧約・ 1071頁】
第二の日課 ローマ 1:1-7 【新約・273頁】
福音の日課 マタイ 1:18-25 【新約・ 1頁】

主日の聖書日課は連続した箇所の中に、教会の祝祭に関わる聖書箇所を取り上げる。教会の祝祭とはすなわち、主イエス・キリストにおいて起こった救済の出来事を憶えるである。その事はいわば、キリストの救いの業が、私たち人間がたてた計画や順序を切断し、中断させ、その中に入り込んでくることを示唆している。自分達の建てた順序を守り抜くよりも、そうした人間の思いがキリストの救いの出来事によって中断されること、それこそが、救いのリアリティーであることを、教会の伝統はむしろ重視したのだった。
主イエスの降誕の週の幕開けとなる待降節第4主日を私たちは迎えた。待降節第4主日の日課には、救い主の到来についての神の言葉が告げられる箇所が選ばれている。本日の聖書の箇所は、マタイによる福音書における、救い主の降誕の告知とそのいきさつが語られているが、マリアに注目したルカ福音書と異なり、マタイ福音書ではヨセフが中心となっている。本日の日課に先駆けて、1章の冒頭では主イエスの系図が語られ、そして主イエスの誕生の次第が語られる。しかしそこには実は二つの中断がある。
主イエスの系図は、ダビデの血統としてのヨセフの系図である。しかしこの後に続く物語は、ヨセフと主イエスが、血縁上のつながりがないことを語っている。つまり人間の系譜は一旦中断されるのである。しかしそのことがむしろ救いの歴史となっていくことを、この福音書はこれから語るのだということを示していると言える。
続いて、ヨセフに主の天使が現れ、神の言葉を告げる物語が続く。ここでヨセフは「正しい人」と紹介される。正しい人とは律法に忠実な人であり、当時の社会の倫理・価値観に忠実な人であることを意味している。正しい人であったヨセフは、彼の生きた社会の倫理に従って、結婚前に身ごもった婚約者マリアを離縁しようとする。しかしたとえ「ひそかに」であったとしても、結果としてマリアは裁かれる危険にさらされることとなる。当時、婚約中であっても姦通には厳罰が与えられた。つまり、ヨセフの正しさはマリアとその身に宿る命を危機に晒すのである。しかしヨセフのその正しさゆえの計画は、主の使いが語る神の言葉によって中断されることとなる。神の言葉は、そこに救い主が与えられたことを語る。ヨセフの正しさは、マリアを断罪しようとする。しかし、そこに与えられた救い主はそれを中断させるのである。死の危機は生の希望へと変えられた。死を生へと変えること、それこそまさに主の愛の働きであり、そこに神が共におられるということに他ならなかった。
今週私たちは主の降誕を憶えるクリスマスの時を迎える。それは私たちの思いと計画を、救いは中断させることを今一度思い起こす時でもある。けれどもそれは同時に、私たちの思いと期待を遙かに超えた神の救いが、主イエスによって私たちの生きるただ中に与えられたことに私たちが立ち返る時でもある。私たちの救い、主イエスの到来をなお、待ち望みたい。

2013年12月17日火曜日

[説教要旨]2013/12/15「来るべき方は」マタイ11:2-11

待降節第3主日

初めの日課 イザヤ 35:1-10 【旧約・ 1116頁】
第二の日課 ヤコブ 5:7-10 【新約・ 426頁】
福音の日課 マタイ 11:2-11 【新約・ 19頁】

 洗礼者ヨハネは、ヨルダン川において世の不正を明らかにし悔い改めを呼びかけ、人びとに洗礼を授ける活動を行っていた。彼の厳しい批判と断罪はユダヤの政治的な支配者であるヘロデにまで及んだ。権力に対して容赦なくその批判を向けたヨハネは逮捕され投獄される。獄中において彼は、自分が為し遂げることが出来なかった事の完成を「来るべき方」に期待する。しかし、彼が獄中で聞いた主イエスの教えと働きは、思い描いた来るべき方の姿ではなかった。ヨハネは弟子たちを遣わして、主イエスに「来るべき方は、あなたでしょうか。それともほかの方を待たなければなりませんか」と問う。洗礼者ヨハネが期待していたものとは、彼が始めた断罪と裁きの呼びかけを徹底する人物であったと思われる。けれども、断罪ではなく赦しを、裁きではなく解放を主イエスは伝え、そして病と貧困、人を苦しめる様々な力から人びとを解き放つ方であった。洗礼者ヨハネの問いに対して主イエスは期待するようには応えられなかった。その意味では、洗礼者ヨハネの期待は裏切られたと言える。
 おそらく洗礼者ヨハネが来るべき方に対して抱いていたイメージは、神の到来に備えてヨハネ自身の思い描く秩序を完成される方、つまり塵一つ無く静寂で厳格な地上を準備する働きを完成する方であったのではないだろうか。しかし主イエスが為されたことはむしろ、その歩まれた場所に溢れるような新たな命をもたらし、そこに喜びと感謝の声をもって満たされるかたであった。それはたしかに、むしろ混沌と騒がしさ、無秩序をもたらすかのようにすら思われたかもしれない。けれどもこの地上に命と喜びを生み出すことこそ、まさに天地を創られた神の愛の業であった。洗礼者ヨハネは確かに、この地上においては最も偉大な者であるとされる。けれども、天の国、神の国の出来事は、その最も偉大な者の計画と思惑すら遙かに凌駕するものであることを、主イエスは語られる。なによりも、その言葉を語られる主イエスご自身が、人間的な視点で見るならば、挫折と絶望としか見えない、十字架への道を歩まれた。しかしその道は挫折と絶望に終わることなく、私たちの思惑と期待を遙かに超えて、主イエスの復活の命は続いてゆくのである。そして、主イエスが備えられた道は、潰えることのない永遠の希望と喜びへ、私たちを導いている。その主イエスは「わたしにつまずかない人は幸いである」と語られる。洗礼者ヨハネの抱いていた期待は、いわば人の思いの延長線上にあったと言える。しかし、救いの出来事は、私たちの期待や思惑の延長線上で、計画通りに進展することはなく、むしろ、私たちのそうした思惑の延長を切断し、新しい道、救いと永遠の命への道を歩むことを余儀なくさせるのである。
 主の降誕に備えるアドベントの時を私たちは過ごしている。それは私たちが、自らが抱いてきた思惑や期待を振り返り、その延長線上に救い主はいないということを今一度思い起こす時でもある。けれどもそれは同時に、私たちの思いと期待を遙かに超えた神の救いは、主イエスによって私たちに与えられたことに私たちが立ち返る時でもある。天より与えられる私たちの救いを待ち望みたい。

2013年12月14日土曜日

[説教要旨]2013/12/8「荒れ野で叫ぶ者の声て」マタイ3:1-12

待降節第2主日

初めの日課 イザヤ 11:1-10 【旧約・ 1078頁】
第二の日課 ローマ 15:4-13 【新約・ 295頁】
福音の日課 マタイ 3:1-12 【新約・ 3頁】

 待降節第2主日を迎え、アドベントクランツの2つめの火が灯った。夜の闇が最も長くなる季節であるクリスマスが近づくと共に、アドベントクランツのロウソクの灯火は増え、明るさを増してゆく。それは、世の闇の最も深まる時、世の光・救い主キリストが私たちのもとへ到来されれることを告げる。本日の福音書に登場する洗礼者ヨハネもまた、イスラエルの地に現れた預言者の一人として、救い主キリストの到来を告げるものに他ならなかった。
 ヨハネは、ヨルダン川において悔い改めの洗礼を授ける活動を行っていた。当時のユダヤでは、自らの生活の宗教的清さを保つための儀式として度々沐浴が行われていた。ヨハネはこの「清め」の沐浴に、さらに「悔い改め」の意味を与えて人々に洗礼を施した。その違いを敢えて挙げるならば、清めはある枠内に留まることに強調点があるのに対して、悔い改めは自らを神の方へと向け直す、動的な意味があると言えるだろう。ヨハネは、人々に悔い改めを呼び掛け、地上の力に支配された自らの命を、今や近づきつつある神の国に委ねることを求めたのだった。
 そのヨハネが叫んでいた「荒れ野」とは、神から離れてしまう自らの心を覆い隠すことの出来るものが全て取り去られた場所である。あらゆる虚飾がはぎ取られ、剥き出しにされて、自らが神から離れてしまったことを告白し、悔い改めてその命を委ねよ、とヨハネは叫ぶ。ヨハネの立っている荒れ野では自らを「清い者」であると誇ることはもはや不可能なのである。
 本日の日課に登場するファリサイ派、サドカイ派と呼ばれる人々は、それぞれの仕方で律法・掟を守り、自らを清く保つことに努力し専心した者達であった。それゆえに自分たちこそが民族を代表する、中心的な存在であるという自負も小さくはなかったであろう。しかしその彼らに対してもヨハネは容赦なく「悔い改め」を迫る。自らを清く保つためにの自分達の努力に彼らがどれほど自信をもっていたとしても、それはこの荒れ野では役立たない。神の前にある一つの命として、神の国にその命を委ねるしかない。このヨハネの叫びは、時の権力者たちの耳には痛いものであり、結局彼は逮捕され処刑されてしまう。ならばその叫びは無駄に、未完成のまま終わってしまったのだろうか。
 本日の箇所でヨハネは語る。「わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」人としてのこの地上での歩みによっては完成することの出来ないものを、来るべき方は完成して下さる。ヨハネは全てを自らの手で完成させることを望んでいたのではなく、むしろ完成して下さる方は他におられること、私たちの悔い改めとは、この方に、全てを委ねることなのだということ、そしてなによりもヨハネ自身が全てをその方に委ねていることをこの荒れ野で叫ぶのである。まさにその意味で、ヨハネは主イエス・キリストの到来を示し、その主イエス・キリストにその全ての希望を託したのだった。アドベントの季節、私たちの思いを越えて、私たちの間に神の約束が実現する希望を持ち続けたい。

2013年12月10日火曜日

[説教要旨]2013/12/1「主の光の中を歩む」マタイ24:36−44

待降節第1主日

初めの日課 イザヤ 2:1-5 【旧約・ 1063頁】
第二の日課 ローマ 13:11-14 【新約・ 293頁】
福音の日課 マタイ 24:36-44 【新約・ 48頁】

教会の暦では、本日から待降節の時を迎えた。アドベントクランツのろうそくに毎週1本づつ火が点けられ、4本灯されたとき私たちは主の誕生を憶える降誕祭の時を迎える。「主の誕生」とは言うものの厳密には「イエス・キリストの誕生日」ではない。キリスト教会はこの日を「イエス・キリストが、私たちの生きるこの世界へとやってこられたことを憶える」時とした。待降節は本来、「私たちが主の降誕を待つ」よりも「主が、私たちのもとに来られる」ということが本質である。主イエスが来られることによって初めて、古い時、古いものが新しくされて行くことが実現されるのである。
本日の日課は、十字架の直前に主イエスが語られた世の終わりについての言葉が選ばれているが、それは同時に、救い主の再臨についての教えであった。たしかにその言葉には、私たちの日常生活が突然に終わりを告げる不安を覚えさせるような表現がある。しかし、同時にそれは私たちを励まし力づける言葉でもある。将来に対して不安と恐れしか見出せず、日常の中に何の希望も見出すことが出来ないために、絶望のあまり自分より弱い者を傷つけ貶めることでしか鬱屈を発散できない、そのような時代の中を人は生きなければならない。絶望しか見出すことが出来ない私たちを取り巻くその日常は永遠に続くのではないか、私たちはそのようにしか思われない時がある。けれども私たちの見えないところで、何の変化も見えないように私たちの日常の中にも、変化は着実に起こっていることを、主イエスは語られる。畑で仕事をしている2人の男のうち、1人が連れて行かれ1人は残される。臼をひく2人の女のうち、1人が連れて行かれ1人は残される。そこに何の区別があるのか、私たちに見出すことは出来ない。しかし、私たちの見えないその背後で、変化は確実に起こっているのである。
主イエスは、人としての痛みと絶望の極みである十字架へと向かおうとする時に、ご自身の到来を語られている。それは、救い主・イエス・キリストは、まさに私たちの恐れ・不安・絶望、そうした闇のただ中に分け入り、そこで闇の力に打ち勝たれ、光をもたらされるために、この地上へと到来されたのだということを私たちに物語る。その主イエスは語る。「目を覚ましていなさい」。主イエスの到来によって、私たちの見えないところで、変化は起こっている。だから、主イエスの到来の出来事を待ち望むこと、それは私たちを支え、励ます、滅びる事のない約束の言葉なのである。
今、私たちは恐れの時代を生きている。しかし、そのような私たちの心の内のその闇のただ中に主イエスはやってこられるのである。それゆえに、そして変わることのないようにすら思えるその日常の背後で、着実に変化は起こっているのである。また私たちは今、主イエスの到来を待ち望むアドベントの時を迎えている。それは毎年繰り返されるクリスマスを待ち望む季節であると同時に、主イエスが再びこの地上にやってこられるその時を待ち望む期間でもある。それは、私たちを取り巻く闇がますます濃くなって行く中、私たちが「目を覚ましていなさい」というその主イエスの言葉によって励まされ、待ち続けることに他ならない。闇の中に生きる私たちに与えられた光、主イエスの到来の時は近いことを憶えて、この時を過ごしたい。