熱中症対策のため夏季はチャペルではなく大学教室で礼拝を行う場合があります。
チャペル以外の場所で礼拝が行われる場合は、日曜の朝に礼チャペルにて掲示いたしますのでご確認下さい。
なお教会員の皆様への配布物は礼拝堂の週報ボックスをご確認ください。
2012年7月21日土曜日
夏季の礼拝について[07/22-09/30]
2012年7月19日木曜日
[説教要旨]2012/07/15「恐れの中から」マルコ6:14-29
聖霊降臨後第7主日
初めの日課 アモス 7:7-15 【旧約・ 1438頁】
第二の日課 エフェソ 1:3-14 【新約・ 352頁】
福音の日課 マルコ 6:14-29 【新約・ 71頁】
洗礼者ヨハネが逮捕されたのは、このヘロデ大王の息子の一人でガリラヤ地方の領主であった、ヘロデ・アンティパスの結婚について批判したことがアンティパスの妻の恨みを買ったためであると本日の箇所では報告されている。またユダヤの歴史家ヨセフスによれば、民衆への洗礼者ヨハネの影響力が大きくなりすぎたため、騒乱につながることをヘロデ・アンティパスが恐れたためであると伝えている。いずれにしても、アンティパス自身は、政治的混乱による自分自身の失脚への恐れ、そして自分の妻の憎悪と怒りへの恐れ、いわば内外の双方からの恐れによって苛まれていたことが推察される。また本日の箇所にはアンティパスは「ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていた」とあり、ヨハネを信頼し、殺すことが出来ずにいた。しかし結局のところ、権力を巡る陰謀の渦巻く宮廷で自らの利益と面目を守るため、アンティパスは洗礼者ヨハネを残酷な方法で処刑することとなる。このアンティパスの姿は、旧約に記された、預言者の語る神の言葉を前にして怖れつつも、その言葉に従うことのできない王・権力者たちの姿を思い起こさせる。それは今も昔も変わることなく人の世に巣くう闇、嫉妬、憎悪、怒り、恐れ、不安を描き出す。
主イエスについて聞き及んだ人々は、主イエスを「エリヤ」だとか「預言者だ」と語ります。そしてその評判を聞き、アンティパスは、「わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ」と語るのです。しかし、そのいずれもが、「イエスとは何者か」という問いに対する答えとして適切なものではなかった。恐れの中で、洗礼者ヨハネを処刑させたヘロデはたしかに、主イエスの中に洗礼者ヨハネとの共通点を見出した。様々に推測する世の人々も、不安定な政情と生活事情の中で、主イエスの教えと業の中に、かつて預言者が、そしてまた洗礼者ヨハネが示したものと同じものを見出していたのであろう。しかしながら、今現れた主イエスは、そのいずれをも凌駕するものであることを、福音書は語ることとなる。
主イエス・キリストは、多くの預言者達が踏み込んできたのと同じこの世の闇の道を歩みながら、その闇から抜け出る道、命と救いの道を私たちに開かれた。洗礼者ヨハネに対するヘロデ・アンティパスの共感と同じく、やがてポンテオ・ピラトは、主イエスに同情するが、結局のところ自らの利益と面目のために、主イエスの処刑を行うこととなる。世の権力の利益と、人々の気まぐれな憎悪によって、主イエスもまた死の道を歩むこととなる。しかし、その十字架の死から主イエスは甦られた。この世の不安と恐れのただ中に誰よりも深く踏み入った主イエスは、誰も見出すことの出来なかった、さらにその先に続く道、命と救いの道を私たちに開かれたのである。
嫉妬、憎悪、怒り、恐れ、不安。それらは私たちにとってあまりにもなじみ深い、私たちの日常を巣くう闇の力である。洗礼者ヨハネと同様に、その闇の中に踏み入る主イエスの姿を福音書は語る。そしてさらにその闇の中から甦り、福音の恵みを私たちに与えられた。この地上における恐れの中で、主イエスは既に私たちに命と救いの道を備えて下さっているのである。
2012年7月12日木曜日
[説教要旨]2012/07/08「巡り歩く主イエス」マルコ6:1-13
聖霊降臨後第6主日
初めの日課 エゼキエル 2:1-5 【新約・ 1297頁】
第二の日課 2コリント 12:2-10 【新約・ 339頁】
福音の日課 マルコ 6:1-13 【新約・ 71頁】
ガリラヤ湖畔で二つの癒しの奇跡を行われた主イエスは、主イエスの家族とその家族らを良く知るもの達がいる故郷の街へ弟子たちと共に向かう。マルコ福音書は3章で既に主イエスの家族に対する冷淡な態度を報告している。神への信頼と人との交わりを回復された主イエスの業と教えからすると、なぜ主イエスはそのような振る舞いをされたのか理解しがたく感じる。一方本日の箇所では、周辺のガリラヤの各地で神の国を宣教し力ある業をなした主イエスが、故郷の地では理解されないことが語られる。3章の報告とこれらの箇所を併せて読む時、それは単に主イエスが冷淡であったのではなく、周囲が主イエスを受け入れることが出来なかったことを浮き彫りにする。神の国の宣教とその力ある業は、故郷の人々が知っているイエスという人物とは結びつかなかった。彼らは自分達の理解出来る範囲の中で、自分達の体験と知識の延長として、主イエスを理解しようとした。しかし神の国の福音を告げる主イエスは、彼らの知る世界には留まってはおられなかったのである。では主イエスはどこにおられたのか。
続く箇所に目を向けると、主イエスが弟子たちに、主イエスに並ぶ働きを任命し派遣されことが報告されている。ご自身と同様の働きを託すにあたって、弟子たちが安全で快適な場所に留まることを、主イエスは望まれない。主イエスと同じく放浪する弟子たちは、やはり主イエスと同じく、人を蝕む悪の力と戦い、病を癒すのであった。このことをもって主イエスと故郷との間の溝について振り返る時、主イエスは、全てが整えられた、慣れ親しんだ場所に留まることを良しとはされなかったことに気付く。主イエスは、ひたすら巡り歩き、人々から見捨てられた者、病の者、排除された者を訪ね、癒し、慰め、励まされた。それこそまさに主イエスが告げられた神の国の福音に他ならなかった。主イエスが訪れる時、それはまさに神の国が近づく時であった。その主イエスは常に、悲しみと苦しみの中にある人々を訪ね、村々を巡り歩き続けた。主イエスの家族と故郷の人々は、そのような主イエスを理解することが出来なかった。おそらく彼らにとっては、自分の日常が整えられ、満たされ、全てを把握し、自分の支配の元に置くことこそが意味あることであったのであろう。しかし主イエスにおいて示された神の国・新しい永遠の命は、その延長線上にはなかった。
あたりまえの日常が崩れ去り、今まで手にしていたものが失われる時、私たちは立ち直れない程の大きな衝撃を受ける。しかもそのような自分とは関係なく、世の日常は過ぎて行くことに気付く時、誰一人として、自分のその痛み・悲しみ・嘆きを理解することが出来ないことに気付き、私たちの悲しみはさらに深くなる。しかしたとえ世の全ての者が理解することが出来なかったとしても、ただ主イエスだけはその悲しみも痛みも苦しみも知っておられる。主イエスは、孤独と悲しみの中にあるものをひたすら訪ね求め、そして自ら十字架の死へと向かわれたからである。その十字架の死は人の目には、悲嘆と挫折の行き詰まりでしかない。しかし、その死から主イエスは甦り、新しい永遠の命への道を私たちに開かれた。この地上に生きる私たちの悲嘆と挫折の中で、主イエスは私たちを訪ね、慰め、癒し、新しい命へと導かれる。
2012年7月5日木曜日
夏季の週日の集会について[07/19-09/20]
週日の諸集会は7/19(木)-9/13(木)の間お休みいたします。
聖書入門(水曜日11時より)は7/18(水)が夏前の最終となります。
9月は9/19(水)から再開いたします。
キリスト教入門講座(木曜日11時、15時)は7/12(木)が夏前の最終となります。
9月は9/20(木)から再開いたします。
[説教要旨]2012/07/01「人々はあざ笑った」マルコ5:21-43
聖霊降臨後第5主日
初めの日課 哀歌 3:22-33 【旧約・ 1290頁】
第二の日課 コリント 8:7-15 【新約・ 334頁】
福音の日課 マルコ 5:21-43 【新約・ 70頁】
本日の福音書では主イエスによる二つの癒しの奇跡の物語が語られる。
冒頭で会堂長ヤイロが主イエスのもとを訪ねる。会堂長とはユダヤの民が礼拝のために集まる会堂の責任を持つ信徒代表であり、その地域のユダヤ人の伝統とその権威を守ることに責任を持つ立場であった。いわば主イエスの権威とは対立する立場にあった彼は、自分の知っている伝統やしきたりだけでは娘の命を救うことが出来ないことをまた知っている。自分の知っている世界の外側にある何かを求めて、ヤイロは主イエスの前にひれ伏し「娘に手をおいて欲しい」と願う。ヤイロの願いに応えて、主イエスは彼の家に向かう。
その途中で12年出血が止まらない女性がいたことが報告される。出血中の女性は、ユダヤの伝統では「穢れ」とされ共同体の交わりから遠ざけられていた。この女性は、病気のゆえに12年もの間交わりから排除され、社会的に死んだものとされていた。世から見捨てられ交わりからも排除されたこの女性は、世においては得られることの無かった癒しを求めて主イエスの衣服に触れる。本来であれば、この女性は「穢れた」ものとして他者に触れることを禁じられていた。しかし、彼女は主イエスへの思いからその禁を破り、その衣服に触れる。常識的に考えれば、それは誰にも知られることなく、また何の効果もないまま過ぎ去ってゆくだけの出来事であった。しかしこの女性は癒され、主イエスは振り返って女性を捜される。大勢の群衆の中から無名の一人を捜し出すことの愚かさを弟子たちは諭す。彼らにとってはこの女性の姿は未だ見えない存在であった。見えないものを見出そうとする主イエスのその態度を、あるいは彼らは心の中で嘲笑していたかもしれない。しかし振り返った主イエスは、進み出た女性と言葉を交わす。それはまさに、存在しないものとされた命が、一人の生きた存在として再び取り戻された瞬間であった。それは単なる病気の治癒ではなく、この女性が再び「生きるもの」となった瞬間であった。主イエスがこの女性へと呼びかけられた言葉が、死に追いやられていた女性に命をもたらしたのである。
その時、会堂長ヤイロの家から、娘の死の知らせが届く。常識で考えれば、ヤイロと主イエスは少女の死に間に合わず、彼らは死に対して何もなすことが出来なかったという失敗と無力さの物語として、それは終わることとなる。しかしながら、福音書は悲嘆の声の中をさらに先へと歩む主イエスの姿を伝える。人々には、主イエスがどこへ進もうとされているのか見ることが出来ない。悲嘆から一転し人々は主イエスをみてあざ笑う。人々の嘲笑を超えて、目には見えない領域へと主イエスは踏み込んで行かれる。当時のしきたりでは穢れた存在であるはずの亡骸に歩み寄り、手を取って言葉を掛けられる。「少女よ、起きなさい」という呼びかけ、それは一つに命に向かって呼びかけられた主イエスとの出会いへの招きの言葉であった。主イエスの言葉に命は応え、少女は起き上がる。
現代人は奇跡物語を合理的に説明しようと試みる場合もある。しかし、そうした試みは主イエスのその教えと働きを理解する上では意味がない。重要なことは、主イエスは、この世の価値観では嫌悪され、排除されているそのただ中にこそ踏み込んで行かれたということ、そしてそのただ中で、主イエスはその言葉によって命を与えられたということなのである。挫折と悲嘆の中で、私たちもまた命を与える主イエスの言葉に出会うのである。
2012年6月29日金曜日
[説教要旨]2012/06/24「風や湖さえも」マルコ4:35-41
聖霊降臨後第4主日・子どもと大人の合同礼拝
初めの日課 ヨブ 38:1-11 【新約826頁】
福音の日課 マルコ 4:35-41 【新約・ 68頁】
台風というだけで、私たちは右往左往して大騒ぎする。予想していなかった事態にうろたえ、自分の計画通りにことがはこばなくなることを心配し、苛つき、怒りを感じる。そう思い起こす時、私たちを襲う風雨は単に自然現象だけではないことに気付く。計画された毎日の中で襲いかかる突然の予想もしない出来事、私たちの毎日の生活の中で突然起こる「嵐」に遭遇した時、私たちはうろたえはてて、ついには周囲に怒りをぶつけずにはいられなくない。私たちは、自分の計画や段取りが邪魔されることを、恐れ、嫌う。なぜならば、自分の計画通りにならない時、人間は自分がいかに弱く頼りない存在かを思い知らされることとなるからである。しかし私たちの生きる世界は、大自然をはじめとして、人間の思い通りにならないものばかりなのである。古代の人々にとっては、それはより明かなことであった。旧約のヨブ記38章では、人間には思い通りにならないこの世界を造り、治めるのは誰かが問われている。自分を襲う悲劇に怒り訴えるヨブに、主なる神は嵐の中から、この世界を造り、命を与えるのは神である私だけだと応えられる。
本日の日課であるマルコ福音書では湖の岸辺に集まった群衆を前に舟の上から主イエスは教えられていた。その日の夕方、その舟に乗って「向こう岸へ渡ろう」と主イエスに命じられて、弟子たちは湖に漕ぎ出す。しかし激しい風に翻弄され、弟子たち慌てふためくこととなる。慌てふためく弟子たちとは対照的に主イエスご自身はまるで何事も起こっていないかのように舟の中で眠っておられる。弟子たちは、おそらく怒りいらつきながら「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか!」と主イエスに訴えたであろう。その姿は、日々の中で予期せぬ嵐に出会って、うろたえてしまう私たちそのものであると言ってもよい。
しかし主イエスが起き上がり風と湖を叱られるとそれらは直ちに静まった。それは、まさに神の力が主イエスにおいて現れたということに他ならなかった。主イエスがおられるところで、人々は病から癒され、苦しみから解放されたことを福音書は語る。実に主イエスがおられるところこそ、世界の全てを造りこれを治める神の力が働く場所なのである。弟子たちは、自分達と一緒におられる主イエスが、そのような方であることを、まだ気付くことができなかった。弟子たちは、今自分達が思うままに進むことが出来ないこと、自分たちが嵐に翻弄されていることだけに心が向いてしまっていた。しかし実は、人間の力と思いを超えて、全ての命を造られた神は、嵐のただ中で弟子たちと共におられたのである。
私たちはこの世界を自分の思い通りに動かすことも出来なければ、自分自身の命ですらどうすることも出来ない。私たちはただ襲い来る嵐に翻弄されるばかりである。けれども主イエスは、その十字架からの復活によって、この世におけるあらゆる挫折と苦しみを超えて神の力は働くということ、そして命は新たに造られることを私たちに示された。私たちは日々の生活の中で、突然の嵐に襲われ恐れ慌てふためき、怒り、嘆き、失望することしか出来ない。けれども十字架の死から甦られた主イエスが私たちと共にいてくださるのである。私たちがこの世の嵐の中にある時、まさにその時、主なる神は私たちと共にいてくださるのである。
2012年6月19日火曜日
[説教要旨]2012/06/17「神の国は種のように」マルコ4:26-34
聖霊降臨後第3主日
初めの日課 エゼキエル 17:22-24 【旧約・ 1320頁】
第二の日課 2コリント 5:6-17 【新約・ 330頁】
福音の日課 マルコ 4:26-34 【新約・ 68頁】
本日の福音書では神の国について語られているが、主イエスは「たとえ」を用いてしか語られない。これらのたとえの意味が分かる・分からないは、知識や知的能力の高さによらず、ただその言葉に従って自らを変えて行くことのできるような生のあり方によって、初めて意味あるものとなる。その意味で、これらの神の国のたとえ話は、私たちが期待するような知識を伝えようとしているのではなく、むしろ聞き手が新しい生き方を歩むようになることを求めている。それは、私たちが今現に手にしているもの・今現に見えているものだけではなく、今はまだ見えないもの・今はまだその手元にはないものに、希望と信頼を寄せていくことのできるような、新しい生き方・新しい命への招きに他ならない。
前半の「ひとりでに成長する種のたとえ」は、神の見えない力のもつ神秘について私たちに語る。種が芽を出し成長する時、人間ができることはただ待つことだけである。あるいはせいぜいその成長に併せて、植木鉢を変えたり、水が絶えないように留意するなど、神の力が働くことを妨げることがないようにするだけである。
私たちが人間であるかぎり、その働きは常に未完成であり、不足のあるものでしかない。それを完成し全てを良しとされるのは神の見えない働きだけなのである。神の力はこの世界を作られた創造の力に他ならない。それは何も無いところから命を生み出す力であり、その力がいつどのように働くかは私たちの目から隠されている。この見えない神の力は過去のものではなく、今を生きる私たちに対しても注がれている。無から命を生み出し、種をひとりでに成長させる神の創造の働きは、絶望の淵であえぐ私たちを救い出す力でもある。
後半の「からし種」のたとえは、たとえその発端においては、どんなに小さく目立たないものであっても、神の業が働くとき、結末においては、何よりも大きくなるという、神の働きの神秘と偉大さについて私たちに語る。大きな結末は私たちに既に約束されている。だからは私たちは現在の小ささに失望する必要はないという、視点と生き方の転換をこの譬えは私たちに投げかける。
無理解と拒絶の中でひたすらに神の国の福音を語られた主イエスの地上での歩みは、見えないものをひたすらに目指すものに他ならなかった。その歩みは十字架の死によって中断させられる。目に見える成果としては、それは挫折であり、不完全なまま終わってしまうことであった。しかし主イエスは、その十字架からの復活によって、この世における挫折と苦しみを超えて、神の創造の業は働き、希望が必ず創り出されることを私たちに伝えられた。私たちは、日々の生活の中で、たくさんの失望と挫折とに直面させられる。予期しない出来事の前で、思い通りにならないことや、期待通りではない決断を迫られることがある。しかし私たちには、既に聖書を通して主イエスの十字架と復活が伝えられているのである。聖書を通して私たちの思いと力と知恵を超えて、神の業は希望を創り出し、全てを良しとされるのだということを私たちは知るのである。