2012年6月13日水曜日

6/24の主日礼拝の開始時間について[6/24]

6/24(日)は「子どもと大人の合同礼拝」として朝10時から礼拝を開始します。
通常の主日礼拝よりも30分早い開始となります。

[説教要旨]2012/06/10「神の御心を行う人こそ」マルコ3:20-35

聖霊降臨後第2主日

初めの日課 創世記 3:8-15 【新約・ 4頁】
第二の日課 2コリント 4:13-5:1 【新約・ 329頁】
福音の日課 マルコ 3:20-35 【新約・ 66頁】

 本日の福音書の冒頭で群衆が主イエスを追い求めてやってくる。おそらく、主イエスが共におられた人々とは2章で既に触れられているように「徴税人や罪人」であった。当時の社会における常識や敬虔さからするならば、そうした人々と食卓を囲むことは恥ずべき非常識な事であった。それゆえに、癒しと慰めを求めてやって来た多くの人々とは対照的に、主イエスの「身内の者」は主イエスを「気が変になっている」と考え取り押さえるためにやってくる。「取り押さえる」という言葉は、主イエスが十字架にかかる際に「逮捕する」という言葉と同じである。つまり「身内の者たち」の態度は、主イエスを理解出来ず敵対した者たちと同じであったと言うことができる。「気が変になっている」という言葉は、字義通りには「外側に立つ」という意味である。したがって、この表現には、社会の常識や父祖伝来の仕事や土地を棄て、その外側に立つ者として生きる主イエスへの非難が込められているとも言える。そのような、社会の外側へと向かい、社会の外側にある人々と共に生きようとする主イエスを、都=中央からやってきた宗教的権威者達もまた「あの男はベルゼブル、悪霊の頭に取り付かれている」「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と非難する。
 これらの非難に対して主イエスは「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」と応える。そこでは確かに兄弟・姉妹・母という、私たちのよく知る家族関係を表す言葉が用いられているが、それとは全く異なる次元の絆を意味するものとして語られる。さらにこの言葉の中には当時の社会の伝統的価値観の中では決定的に重要な役割を果たすはずの「父」が欠落している。それはただ神だけが「父」である、そのような関係が私たちの間に新たに造られることを示している。それは、主イエスに従う者たちが地上を支配する権威から離れ、伝統的な価値観と社会制度の中では社会の外側に追いやられた者たちと共に生き、喜びを分かち合い、悲しみを慰め合う、そのような群れとなるということに他ならなかった。いわば、私たちの知っているこの地上における絆は、主イエスにおいて表された神のみ心を私たちが生きることによって、私たちの理解と想像を超えたものとして新しくされるのである。
 そのような新しい絆を私たちの間に造り上げるために、つまり神のみ心を私たちが生きることが出来るために、他ならぬ主イエスご自身が、神のみ心に従って歩まれた。その行き着く先で主イエスは都エルサレムの外の刑場で、十字架において処刑された。まさに、主イエスは、ひたすら「外側」に向かって歩まれた。しかし、その歩みはその死で終わることはなかった。主イエスは死の支配の外側へ、すなわち「新しい永遠の命」へと歩まれた。神のみ心を行う主イエスはその死から甦り、私たちに神のみ心を生きる道筋を備えられたのである。私たちは聖書が語る主イエスの十字架と復活の歩みを通して、この地上の現実がどれほど悲嘆と苦悩で満ちているとしても、そこには必ずその外側へと通ずる「命の道」が備えられていることを知るのである。

2012年6月5日火曜日

[説教要旨]2012/6/3「風は思いのままに吹く」ヨハネ3:1-17

三位一体主日

初めの日課 イザヤ 6:1-8 【旧約・ 1069頁】
第二の日課 ローマ 8:12-17 【新約・ 284頁】
福音の日課 ヨハネ 3:1-17 【新約・ 167頁】

 本日は教会の暦の「三位一体主日」であるが、三位一体の教理について聖書の中に体系的に記されている箇所は存在しない。生まれたばかりの教会は三位一体という言葉を知らなかった。教会はその歴史の中で葛藤と問いかけを繰り返して、キリスト者達は自らの信仰を振り返り、一つの神は、創り主である神として、救い主キリストとして、慰め主聖霊として、この三つの仕方で私たちに関わられるという新しい信仰の表現を発見したのである。それはいわば聖書がその全体を通じて語っているものを指し示す表現であった。
 三位一体主日は教会の暦の前半の終わりに位置し、父なる神がこの世に御子を降されたクリスマス、御子主イエスが墓から甦られたイースター、そして聖霊が弟子達へと降ったペンテコステという、救いの歴史を総括し、暦の後半に私達の地上での生の中での信仰の成長にその視線を向けさせる役割を担う。それは私たちが現に生きているこの地上での生活もまた、主イエスの誕生・十字架と復活・聖霊の降臨という神の救いの歴史の中の一部であることを、私たちに思い起こさせる。
 本日のヨハネ福音書第3章での主イエスの言葉には、今日に至るまで伝えられている教会とその宣教の本質が詰め込まれている。主イエスに従うものとなるために「新たに生まれる」つまり新しい命に生きることが語られ、この新しい命を与えるためにこそ救い主は来られたことが語られる。そして、その救い主キリストの宣教の働きの源泉は、父なる神の限りのない愛であることが語られる。新生を巡る対話は、やがて風についての話しへと移る。霊と風は、どちらもギリシア語では同じ言葉で、目に見えないが何かを動かす力を指している。そしてまたその力は人間が定めた形によって捉えることは出来ず、その風の行き着く先はどこなのかを知ることは誰にも出来ない。「風は思いのままに吹く」。すなわち神の見えない力である聖霊の風もまた神のみ旨のままに吹く。私たちはただ、今立っているその場で風を受け止め、その風に動かされるだけである。しかし、神の見えない力、聖霊の風に動かされ、まだ見ぬ新しい道へと踏み出すときにこそ、私たちは救い主キリストに出会い、救いの出来事、すなわち新しい命の創造へと向かうのである。
 今日私たちは、あらゆることが自己責任として問い糾され、自分よりも楽をしているように見える者を非難せずにはいられない時代を生きている。そこでは弱さ・低さ・誰かに頼ることを嫌悪し、非難することが賞賛すらされる。そのような世にあって、聖書は私たちのこの日常の中の、その徹底した低みの中に、神の栄光の出来事、すなわち救いの出来事が隠されていることを語る。三位一体という信仰の表現は、いわば聖書の全体が示す、私たちに与えられた救いの在り方を表すものである。この救いの出来事に私達触れることができるために、神は人間となって、不安と悲しみと嘆きの中を生きる私達の低みのただ中へと降られた。そして十字架と復活によって、そこに新しい永遠の命への道を開かれた。さらに聖霊の力によって、私たちを絶えず支え、押し出し、新しい永遠の命へと導かれる。それこそが、主イエスがニコデモに語られた新生に他ならない。神は私達の嘆きと悲しみの中に新しい命の息吹を吹き込み、私達を慰めと希望とで満たされる。

2012年6月1日金曜日

[説教要旨]2012/5/27「悲しみは喜びに」ヨハネ15:26-27、16:4b-15

聖霊降臨祭

初めの日課 エゼキエル 37:1-14 【旧約・ 1357頁】
第二の日課 使徒 2:1-21 【新約・ 214頁】
福音の日課 ヨハネ 15:26-27、16:4b-15 【新約・ 199頁】

 聖霊降臨祭は使徒言行録2章に報告されるように、集まっていた弟子達に聖霊が降り、あらゆる国の言葉で福音を語り始めたとされる。また聖霊の働きによって宣教の働きが始まったことをもって「教会の誕生日」とも呼ばれている。復活節後半はヨハネ福音書の告別説教を中心に福音書が選ばれ、教会は復活の主イエスが共におられることを憶えて過ごしてきた。しかし、それはかつて主イエスがこの地上で弟子たちと共におられた時とは全く異なる、新しいあり方によってであることをも語る。その意味で本日の福音書は、今なお信仰の旅の途上にある私たちに、古い段階への決別の時をも示している。かつて弟子たちが聖霊を受けて新たな命の道を踏み出したように、私たちも今また古いあり方に別れを告げ、新たな一歩を踏み出すことを促されている。
 主イエスの逮捕・処刑に際して主要な弟子達は散り散りに逃げ去ってしまう。その後復活の主イエスとの再会を通して、彼らはまた一つとされるが、主イエスの昇天を経て再び彼らの元からいなくなったとき、彼らは世を恐れ、再び分裂の危機に直面する。そのような彼らのもとに、弁護者・慰め主なる聖霊が与えられたのであった。告別説教の中で主イエスが予告されていること、それは古今東西を問わずに、常にその信仰者の前に立ちはだかる困難の存在であった。そしてそれらの困難を乗り越える唯一の方法は、キリストにつながり続けること、そしてそれによって信仰者は一つになることを主イエスは語られる。その意味で聖霊降臨の出来事は信仰者を一つに結びつける神の働きが主イエスに従う者たちの間に起こったということであった。そしてそうであるからこそ、この時を「教会が生まれたとき」と呼ぶことが出来るのである。
 しかし聖霊を受けた弟子たちはたしかに「一つ」になるが、そこでは全く同じ文言を皆が斉一に語ったわけではなかった。それは様々な言葉、様々な表現で語られ、それらは外見上は異なるにも関わらず、しかしながら一つの事柄を語ることとなったのであった。新しい命の道とはまさにそのようなものであった。一人が支配し、一糸乱れず皆がそれにただ従うという、地上の支配者ローマ帝国の支配制度・軍隊制度ととは全く異なるあり方であった。「一つ」になると言っても、そこでは均一さが強要されるのではない。そうではなく、多様なあり方が受け入れられ、またその多様性が、慰めと励ましの言葉として用いられてゆくようなあり方なのである。それこそがまさに聖霊による交わりである教会の姿なのである。この交わりにおいては一人一人それぞれが、それぞれのあり方で役割と使命を負い、そうであるからこそ、一人一人がみなかけがえのない重要な存在となるのである。
 かつて弟子たちに注がれた聖霊は、現代に生きる私たちをもまた慰め助け、喜びで満たし、一つとならしめる力である。それは、死の闇を打ち破る、復活の光の力であり、過去に固執することから私たちを解放し、多様なあり方を通して、慰めと励まし、そして喜びを分かち合うことの出来る新しい命の道へと私たちを導く力なのである。

2012年5月24日木曜日

聖霊降臨祭・ペンテコステ礼拝のご案内

聖霊降臨祭・ペンテコステ礼拝
2012年5月27日(日)10:30より

礼拝の中で三鷹教会聖歌隊による賛美が行われます。

[説教要旨]2012/05/20「キリストの喜びに満たされて」ヨハネ17:6-19

復活節第7主日

初めの日課 使徒 1:15-17、21-26【新約・ 214頁】
第二の日課 1ヨハネ 5:9-13【新約・ 446頁】
福音の日課 ヨハネ 17:6-19【新約・ 202頁】

 先日の木曜日は、主イエスの復活後、40日目に天に昇られたと聖書にあることから、主の昇天日となっている。それは、主イエスの十字架と復活の出来事、つまりイースターから、その50日後に弟子たちが聖霊を受けて、この世に福音を告げるために遣わされるようになった、聖霊降臨・ペンテコステの出来事へと、私たちは確実に歩みを進めていることを思い起こさせる。
 また本日はアジア祈祷日でもある。これは現在のアジア・キリスト教協議会(CCA)の前身EACCが1959年のペンテコステの一週間前の日曜日に誕生したことに由来している。今年のアジア祈祷日の主題は「神さま、私たちを和解を実現する者にしてください」である。今私たちをとりまくこの世の現実は、対立と憎しみ、暴力で支配し、奪い取ることがひしめいている。特に私たちが生きているこのアジア地域の中には、富める者と貧しい者、暴力的に支配する者とされる者、奪い取る者と奪われる者とが、隣り合わせになって生きている。こうした私たちの現実の中で、キリスト教会が世に証し出来ることを願い、アジアの諸教会は祈りを合わせる。しかしながら私たちはどこに、和解を実現する、その方法を、その原動力を見出していくことができるのだろうか。
 本日の福音書では主イエスとの別れの後にこの世の力によって脅かされることになる弟子たちのため、主イエスが長い祈りを捧げられている。十字架を前にして、主イエスは、弟子たちが神によって守られることを祈る。十字架・復活・昇天を通して、主イエスはこの地上での姿から、天つまり神の領域へとその有り様を移されるが、この世は主イエスに従う者に対してその猛威をふるおうとしているからである。しかし弟子たちには、この世において福音を分かち合う使命を与えられている。神は、その愛の故に、神に背くこの世を捨て去ることができず、主イエスをこの世に遣わし、新しい命への道を示された。主イエスに従う弟子たちは、その主イエスによって示された神の愛を、その新しい命の道を、この世に伝えるために残らなければならないのである。
 神が愛されたこの世に、主イエスが愛された者たちが派遣され、主イエスの十字架と復活によって示された神の愛の偉大さ、その福音を伝える時、世はもはや神に背いたままではなくなる。この世の闇によって引き裂かれ、奪われ、絶望に突き落とされた者たちも、主イエスの祈りによって、喜びと希望に満たされ、そしてその喜びと希望をこの世に分かち合うことで、この世は変えられて行く。むろんそれは決して平坦な道のりではない。しかし主イエスは、「今、わたしはみもとに参ります。世にいる間に、これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです」と祈られる。主イエスによって示された神の限りのない愛の力は、その険しい道を、新しい命へと続く道とされるのである。
 たしかに私たちは、アジアの諸教会とその地域の直面している問題について、直接のつながりもなく、これまで全く知らなかったかもしれない。しかしたとえ私たちの間に大きな裂け目があったとしても、主イエスの喜びによって、その裂け目を満たされることを、そして引き裂かれたこの世において主イエスの証人として、和解を実現するものとして歩むことを祈り求めるのである。

2012年5月16日水曜日

[説教要旨]2012/5/13「キリストが友となられる」ヨハネ15:9-17

復活節第6主日

初めの日課 使徒 10:44-48 【新約・ 234頁】
第二の日課 1ヨハネ 5:1-6 【新約・ 446頁】
福音の日課 ヨハネ 15:9-17 【新約・ 198頁】

 本日の福音書は、主イエスとの密接な関係の中に置かれた私たちの生き方について語る。9節では「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた」、つまり父なる神が主イエスを愛されるということと、主イエスが私たちを愛されるということが、対等の価値をもつかのように記されている。しかし、たしかに父なる神は愛すべき方として御子イエス・キリストを愛されたが、その主イエスが私たちを愛されるということとは、同じ次元の事柄とは言えない。というのも、主イエスが私たちを愛されるのは、決して私たちが愛するに足る資格や力を持つからではないからである。その意味で、私たちが主イエスの愛の中にいるということは、決して当然のことではない。
 主イエスはさらに「わたしの愛にとどまりなさい」「わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。」という命令を語られる。しかし、それは主イエスの愛は条件付の愛であるということではない。なぜなら、主イエスの愛は、愛するに足らない存在である私たちのために、十字架においてその命を捨てて下さった、そのような愛だからである。いうなれば、それは条件など無い、無条件・無制限の愛である。だからむしろここで「わたしの掟を守るなら」とあることは、わたしたちが、窓を開いて太陽の光を受け止めるように、私たちが私たちの硬く閉ざした心の扉を開き、主イエスのその愛を受け止めるならば、ということなのである。
 主イエスの友となるということ、それは私たちがなにか人間以上の存在になるということではなく、私たちがキリストというまことのぶどうの木につながることで、人の目から見たならばたとえどんなにそれが不足し不十分であったとしても、その実を結ぶことを抜きにしてはありえないことなのである。その成果がたとえどんなに不十分であったとしても、私たち一人一人がこの世に主イエスの愛を伝える時、その成果の如何に関わらず、キリストの友として既に私たちに注がれている無条件の愛は主イエスにつながる私たちへと注がれているのである。
 かつて弟子たちに語られた主イエスの愛の戒めは、時を超えて現代の日本に生きる私たちのところにも届いている。私たちは自己中心的な、満たされることのない欲望の誘惑としての、この闇の力に取り囲まれている。その中で新しい永遠の命に留まり、神の愛によって渇きを癒され、喜びに満たされて生きるためには、友のために生きるということが不可欠であることを主イエスは語られる。それはまさに主イエスご自身が歩まれた道、あの十字架に向かう道を私たちもまた歩むということに他ならない。しかし、その道は主イエスが歩まれた今や、私たちにとってはもはや苦しみの道ではなく、神の愛が運ばれてくる道となっている。友のために、自分の命を用いてゆくこと、それこそが互いに愛し合うということであり、神の愛のうちに私たち自身が生きるということなのである。