12/11(日)14時より「やかまし村のクリスマス」がチャペルにて行われます。
人形劇・お話を中心にした楽しい会です。ご家族でお誘いあわせて是非ご参加下さい。
特別ゲスト:凸凹工房 森島孝さん(浜松市在住)
手作りの「おはなし組木」で人形劇を上演
『スイミー』『三びきのやぎのがらがらどん』他
日本福音ルーテル三鷹教会の行事の案内や報告など Informations from Japan Evangelical Lutheran MITAKA Church
12/11(日)14時より「やかまし村のクリスマス」がチャペルにて行われます。
人形劇・お話を中心にした楽しい会です。ご家族でお誘いあわせて是非ご参加下さい。
特別ゲスト:凸凹工房 森島孝さん(浜松市在住)
手作りの「おはなし組木」で人形劇を上演
『スイミー』『三びきのやぎのがらがらどん』他
待降節第2主日
初めの日課 イザヤ 40:1−11 【旧約・1123頁】
第二の日課 2ペトロ 3:8−15 【新約・ 439頁】
福音の日課 マルコ 1:1−8 【新約・61頁】
アドベントクランツの2つめのロウソクにも火が灯された。クリスマスの出来事は私たちの元に確実に近づいてきている。クリスマスという出来事とは、神は遠くにいてわたしたちの苦しむのを眺めているのではなく、そこにかかわり、人の喜びも苦しみもすべて味わうために、この地上において人となられたということである。その神の子をわたしが迎える時、私たちが自分の居場所、自分の持ち物、自分の好むもの、自分を満足させるものを手放し、それを誰かのために、普段自分にとっては関わりがないような、自分から離れた遠い存在であると思っているような、そうした人々のために献げ、分かち合う時、そこに救い主を迎える道が、場所が造られてゆくのである。
マルコによる福音書の冒頭には、いわゆるクリスマス物語は収録されていない。代わりに「神の子イエス・キリストの福音の初め。」という一言が語られた後に、洗礼者ヨハネが神の子救い主の到来を告げる。いわばこの一言によって、クリスマスの意味を凝縮しているのである。救い主がこの世に与えられたという出来事、それはこの世に生きる全ての民に告げられた良い知らせ、すなわち「福音」の始まりなのである。洗礼者ヨハネは、この福音のために「主の道を整える」ことを呼びかける。この呼びかけに応えて「ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとにきて、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた」とマルコ福音書は報告している。ルカ福音書3章では、より厳しい洗礼者ヨハネの活動と言葉が収録されている。「(10)そこで群衆は、「では、わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。(11)ヨハネは、「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」と答えた。」洗礼者ヨハネによる悔い改めの呼びかけ、それは自分を満たすことを断念し、誰かのために分かち合うことの呼びかけであった。
しかし、洗礼者ヨハネはさらに「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。」と語る。洗礼者ヨハネの悔い改め呼びかけは、福音そのものではなかったのである。私たちが自分の行為の成果、その正しさの評価だけを目に留めるならば、それはいずれ、形式化された規則となり、それはまた新たな抑圧を生み出してしまう。だからこそ洗礼者ヨハネは、彼の呼びかけの先には救い主、主イエス・キリストがあるということを語る。私たちが自分自身を断念し、誰かのためにそれを分かち合うということ、それは、人の目に正しく映るためでも、人の基準によってその合否が計られるためでもない。それは、ただ主イエスを迎える、その道を、その場所を、私たちが備えるためなのである。
クリスマスの近づくこの時期、町はきらびやかな装飾で満ちる。しかし、本当の意味で、クリスマスを迎える準備とは、美しく、自分の好みに合わせて、自分の空間を満たすことなのではない。自分を満たすのではなく、遠い誰かのためにそれを用いていく。それこそが、救い主を迎えるその道を整えることなのである。
待降節第1主日
初めの日課 イザヤ 64:1−8 【旧約・1166頁】
第二の日課 1コリント 1:3−9 【新約・ 299頁】
福音の日課 マルコ 13:24−37 【新約・89頁】
十字架で処刑された男・ナザレ出身のイエスが生ける神・救い主であるという、この逆説こそ、苦しみと悲しみに満ちた私たちの生の中に伝えられた福音であり、教会の宣教の中心であった。しかし、やがて時が流れ、イエスが神であることを強調するあまり、この世界に現れたのは、幻のような神の仮の姿であるといった理解が生まれてくるようになる。葬られたはずの墓が空であったことを説明するためには、この理解はたしかに都合の良いものであった。しかし、教会の伝統は、そうした理解を斥けた。それは主イエスが、私たちと変わらぬ一人の人間としてこの世に生を受け、そしてこの地上を歩まれたということが、福音にとって欠く事の出来ない点であったからである。主イエスが生ける神であることを伝えた教会は、クリスマス、すなわち「主イエス・キリストが、私たちの生きるこの世界に一人の人として到来された事」を憶える時を持つ事となった。
キリスト教では、救い主であるイエス・キリストが、私たちのこの世界へとやってくることをこの季節に憶える。北半球では毎週アドベントクランツのろうそくの光が増えるにつれて、逆に外の闇はますます濃くなっていく。私たちの周囲を取り囲む闇がその力を増してゆく中で、私たちの生きるその闇のただ中に与えられた光、救い主キリストの到来を私たちは憶える。
本日の福音書で主イエスは十字架の地であるエルサレムにおいて、いわばその死を目前にして、告別の辞とも言える教えを語っている。しかし、その締めくくりである本日の箇所では、「人の子がやってくる」ということが語られる。ここで「人の子がやってくる」ということ、それは主イエスご自身が再び到来されるということであった。つまり告別の辞は、再会の約束によって締めくくられるのである。しかもその再会は、闇の力の支配するこの古い世が終わる時、つまり神の国がこの地上に完成する時に実現すると語られる。
これからまさに、十字架という、人としての痛みと絶望の極みへと向かおうとする時に、主イエスは神の国の完成とご自身の到来を語る。それは、救い主・イエス・キリストは、私たち人間の痛み・苦しみ、悲しみ・絶望、そうした闇のただ中に分け入り、そこで闇の力に打ち勝ち、光をもたらされ、神の国をそこに打ち立てる。そのためにこの地上へと到来されたのだということを私たちに物語る。
主イエスは語る。「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」。主イエスがこの世界のその闇のただ中に踏み込み、その闇を打ち砕かれる。それは滅びる事のない約束の言葉として、私たちを今も支え、励ましている。
私たちは今、主イエスの到来に備える、アドベントの時を迎えている。それは単に、過去の出来事を思いだし記念しているだけなのではない。私たちは今まさに、主イエスが、私たちを取り巻く闇の中に到来されることを待ち望んでいる。私たちを取り巻く、ますます濃くなってゆくこの闇の中で、私たちが主イエスの言葉によって励まされ、支えられてゆくこと。それこそがまさに、主イエス・キリストの到来に備えることなのである。
聖霊降臨後最終主日・成長感謝礼拝
初めの日課 エゼキエル 34:11-16、23-24 【旧約・1353頁】
福音の日課 マタイ 25:31-46 【新約・50頁】
教会暦の終わりにあたって、教会の伝統では永遠の神について思いを寄せてきた。自分の目で神を見たことのある人はいない。しかし、私たちは神がいることは知っている。なぜならば、私たちに「命」が与えられ、私たちが生きているからである。私たちは自分で自分の命を創ることはできない。私たちが粘土をこねて人の形を作っても、その粘土が生きて動き出したりすることはない。ただ神だけが、命を私たちに与えて下さるのである。だから、私たちが今生きているということそのものが神がいる証なのである。しかし、その神はどこにいるのか?永遠に続くと考えていた日常に悲劇が襲うとき、私たちはそう問わずにはいられない時がある。
私たちは神を見る事はできなとも、神が与えて下さった命があることはわかる。同様に、神がどこで働かれるのかを私たち自身は既に知っているのである。私たちが、誰かに優しくしたり、親切にしたり、困っている人を助けたりする時、神が私たちの心に働きかけて、私たちを動かして下さっているのである。そのような時、私たちは果たして憎悪と憤怒で、あるいは孤独と悲嘆に満たされることはない。自分に与えられたものを他者と分かち合うとき、皆が喜ぶことができる。分かち合うことによって、自分一人が手にするものは、たしかに少なくなるかもしれない。しかし驚くべき事に、自分だけで独占するよりも、誰かのために分かち合う時の方が、私たちは何倍もの喜びを得ることが出来るのである。それは、その時神が私たちの心に働いてくださっているからに他ならない。神が私たちの心に働いて下さる時、私たちは独占や憎悪、対立から解放され、もっと大事な事が何なのか、永遠の価値を持つものが何なのかを知るのである。
『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』
誰かのために私たちが自分のもっているものを分かち合おうとする時、そこには神がおられる。聖書は私たちにそう教えている。
来週から、クリスマスの準備を教会は始める。クリスマスは、神さまが私たちのために、イエス様を与えて下さったことを憶えて祝う時である。この世に降られた神・主イエスは、私たち一人一人の心の中をも訪れ、誰かのために、自分の持っているものを分かちあい、共に喜ぶ心で、私たちの心を満たして下さるのである。それは神の永遠の愛で、私たち自身が満たされることなのである。
11/20(日)は成長感謝礼拝として、こどもと大人の合同礼拝(10:30)となります。
礼拝の中で子ども祝福式を行います。
教会から子ども達にプレゼントもあります。
祝福はどなたでも受ける事ができます。
是非ご家族で礼拝にお越し下さい。
召天者記念礼拝
初めの日課 イザヤ 26:1-13 【旧約・1099頁】
第二の日課 黙示録 21:22-27 【新約・ 479頁】
福音の日課 マタイ 5:1-12 【新約・6頁】
この秋の日、私たちは召天者記念礼拝として、ここに集っている。季節が秋から冬へと向かう中、私たちは様々なものが自分のまわりから失われていく事に気付かされる。冬が訪れた後には、命の枯れ果てた景色だけが私たちの目に映る。しかし、たとえ私たちの目にはそうは見えなかったとしても、私たちの目からは隠されたところで、新しい命は芽生え、やがて来る春の時を待っている。むしろ、命は私たちの目に見えるところからやってくることはない。
キリスト教の復活信仰は、私たちの命がそこから与えられるところの、私たちの目からは隠されている世界に、希望を確信することである。そもそも私たちは、自分自身の命ですらそれがどこからやってきたのかを我が目で確かめる事はできない。いわば私たちの命そのものは、目に見えないものによって創り出されている。
本日の福音書で主イエスは、弟子たちに向かって語る長い「山上の説教」の端緒として「神の民とはどのようなものであるか」を語る。そこでは語られるのは、神の民の「至福」であった。しかしそれらは実は皆、神の民が現に今この地上においては様々な悲しみ・痛み・窮乏・困惑のうちに置かれていることを前提としていることに気付く。痛みや苦しみ、悲しみや絶望、そうしたものの中に、現に今、神の民は生きなければならない。しかし、主イエスはそのような、苦境の中にある者に向かって「幸いである」「その人たちは慰められる」「満たされる」と断言される。論理的にはそんなことが起こるはずがない、希望の芽などどこに見出せない。この地上に生きる私たちは、自分の知りうる領域のみを見て、そのように語らずにはいられない。
しかし、主イエスは「天の国はその人たちのものである」と断言される。たしかに、私たちの見える領域においては、ただ全てが失われた、死の支配する冬の時だけしか見出せないかも知れない。しかし、私たちに隠されたところ、私たちの命がそこから与えられたところ、私たちの命の造り主である神がおられるところ、そこには新しい永遠の命がある。そこにこそ、神の民の希望がある。主イエスは、そう語られるのである。
そして、その言葉が真実である事を、主イエスはご自身の十字架からの復活によって私たちに示された。十字架の磔刑とは、まさに痛みと、悲しみ、絶望と困惑のその極みの中で、人として持てるその全てを失うということに他ならない。しかし全てを失われた主イエスは、新しい永遠の命において復活された。それは、私たちが現に今置かれている、あらゆる困窮・悲痛も、この主イエスの復活によって示された、新しい永遠の命に勝つ事ができないことを告げる。私たちの命を削り取っていく、悲しみ・絶望・困窮を圧倒する真の希望、それは、私たちの目には隠された、けれども私たちに約束されている、神の国、天の国から与えられる。
先に天に召された方々は、たしかに私たちの目からは隠されているかも知れない。しかし、命の源である神の国において、私たちは共に永遠の命に結びあわされている。今なお地上に残された私たちも、主イエスが語られる「幸いである」の言葉を受けつつ、地上での命を生き抜いてゆきたい。