2011年8月31日水曜日

[説教要旨]2011/08/28「恐れることはない」マタイ14:22-33

聖霊降臨後第11主日

初めの日課 列王記上 19:1-21 【旧約・565頁】
第二の日課 ローマ 11:13-24 【新約・290頁】
福音の日課 マタイ 14:22-33 【新約・28頁】

 5000人以上の大群衆の飢えを満たすという奇跡の後、主イエスは弟子たちを湖の向こう岸へ強いて渡らせる。その後、山で一人祈られる主イエス姿は、十字架の直前の出来事を読者である私たちに再び連想させる。一方、弟子たちが沖にこぎ出す様子は、まるでこの世における信仰者の集まりとしての教会の姿を思い起こさせる。命じられたまま沖に漕ぎ出した舟は、進むことも戻ることもできないまま、暗い一夜を過ごさねばならなくなる。彼らのうちには漁師達もいたのであるから、そうした難に際しての経験と知識そして技術を有していたはずである。しかしいまや、彼らはそうした人間的な経験・知識・技術では太刀打ちできない危機の中に陥ってしまう。彼らの人間的な能力や、これまで積み重ねてきたもの、それらは今や全く役に立たない。むしろ、そうしたものがかえって、彼らの恐れと不安そして疑いを増大させることとなった。舟の上での弟子たちの会話について聖書は語らない。しかし、おそらく舟上では、このような事態になったのは誰のせいであるかと互いを非難しあい、誰の言うことが正しいか、どうやって自分だけは助かろうか、と言い争っていたのではないだろうか。舟を揺さぶる波風は、同時に舟の中にある弟子たちの内面をも強く揺さぶる。その危機の中で、弟子たちは水の上を歩く人影が近づいてくるのを目撃し、さらなる恐怖に襲われることとなる。動揺と混乱の極みにある弟子たちに、主イエスは語りかける。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」。かつて主イエスは嵐を静められた時(8:23-27)、弟子たちは「この方はどういう方なのだろう」と問うだけであった。しかし、十字架への道筋が際立ってくるに至って、弟子たちは目の前におられる方こそが、救い主キリストであることを知る。今や弟子たちは「本当に、あなたは神の子です」とその信仰を告白する。
 救い主の呼びかけによって、ペトロもまた湖の上を歩み出す。しかしすぐに風に恐れをなし波に飲み込まれてしまい、すぐに主イエスによってすくい上げられなければならなくなる。波風を前にペトロは、自分の持てる力は何一つ、この事態の中で役に立たないこと、自分はただ主イエスを呼び求めるしかないことを知る。けれどもその危機の中で、主イエスはペトロに最も近くおられることを知ることとなる。そして主イエスは「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」とペトロに問いかける。しかし、ここには一つの逆説がある。主イエスは信仰者ではないものに対して、「信仰の薄い者よ」と呼びかけ、問いかけることはされない。その意味で、主イエスのこの問いかけは信仰の不足を咎め立てているのではない。それはむしろ、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」という呼びかけと対になって、この世の波風の中を史砕くことなど出来ず、溺れゆくしかない私たちを、すくい上げ力づける言葉なのである。
 主イエスは、十字架の死というあらゆる危機のただ中へと決然と歩まれる。それは、私たち一人一人の迎える危機のただ中に、救い主キリストが共におられるためであった。だからこそ私たちが、「主よ、助けて下さい」と叫びを上げるとき、主イエスは私たちの最も近くあって、私たちをすくい上げてくださるのである。

2011年8月23日火曜日

[説教要旨]2011/08/21「全ての人を満たす」マタイ14:13−21

聖霊降臨後第10主日

初めの日課 イザヤ 55:1−5 【旧約・1152頁】
第二の日課 ローマ 9:1−5 【新約・286頁】
福音の日課 マタイ 14:13−21 【新約・28頁】

 主イエスの道を備える者である洗礼者ヨハネが権力者によって処刑されたことは、主イエス自身の辿る運命を暗示している。これ以降、主イエスの十字架がいよいよ迫ってくることとなる。十字架へと近づく主イエスは、群衆の中へと入ってゆき、救い主メシアとしての働きをなす。その一方でユダヤ社会の宗教的指導者・権力者達との対立を深めてゆく。
 十字架への道を歩まれる主イエスを群衆たちは追いかける。その大勢の群衆を見て、主イエスは「深く憐れまれた」。それは単に、個人的な感情として同情するとか、かわいそうに思うということなのではない。人々の困窮と苦悩を共に担い、そしてそこからの解放をもたらされる救い主として、人々へと関わるあり方を表している。「その中の病人をいやされた」という記述は、まさにそうした救い主と人との関わりを物語っている。それは等価交換や義務と権利といった人間社会の価値観によるものではない。それはただ、困難の内にある命と共にあり、その苦しみと悲しみを共に担うという、神の愛と慈しみに基づいている。
 夕刻における大群衆(男だけで五千人)へ食事を与える奇跡がそれに続く。現代人としては、「どのようにして」この奇跡を合理的に説明できるかにとらわれてしまいがちであるが、それは空しい試みに過ぎない。なぜならばここで重要であることは、救い主である主イエスにおいて神の愛と慈しみは実現するということ、そしてその主イエスが共におられるところで、空腹の大群衆が全て満たされたということに尽きるからである。そこで実現したことはまさに、等価交換や義務と権利といった人間社会の価値観・合理性を無視した天の国の論理であった。そしてまたそれは、聖書において繰り返し語られてきた神の慈しみの業であった。聖書が語る歴史の中、弱り果てた民を主なる神が見捨てることはなかったのである。
 神の愛と慈しみの深さが示される一方で、主イエスに命じられた弟子たち自身が用意出来たものは、わずかにパン5つと魚2匹でしかなかったことが語られる。それは空腹を抱えた群衆の数から見れば、およそ無に等しいものに過ぎなかった。この対比によって、合理的に見ればここでの弟子たちの働きが、現実の要求に対していかに僅かで不十分なものであるかが際立たせられることとなる。しかし、その人の目から見れば不十分に過ぎない働きを、主イエスは拒否されることも叱責されることもなく受け取られる。そして主イエスによってそれが用いられる時、それは全ての人を満たして余りあるほどとなったのであった。
 十字架への道を歩まれる主イエスが分け与えられるもの、それはご自身の命に他ならない。主イエスの命が分かち合われるところでは、私たちは自らの力の弱さ・不十分さを嘆く必要はない。主イエスは私たちのその不十分な業を用いて、私たちの思いと力とを超えた未来へと私たちを導くのである。

2011年8月18日木曜日

[説教要旨]2011/08/14「隠された宝」マタイ13:44-52

聖霊降臨後第9主日

初めの日課 列王記上 3:4−15 【旧約・531頁】
第二の日課 ローマ 8:31−39 【新約・285頁】
福音の日課 マタイ 13:44−52 【新約・26頁】

 本日の聖書のたとえが語ることは、「天の国」とは自分の努力によって導き出される実りではない、ということである。それは私たちの間に既に与えられている。それを私たちはただ「発見」することが出来るだけである。そしてさらに、自分の働きの成果ではないはずの、この天の国と出会う時、私たちの生の歩みは根底から、その立っている基準・基盤を変えられてしまうことを、これらの譬えは私たちに気付かせる。
 本日の最初のたとえの中に登場する農夫は、自分自身の畑を耕しているわけではなく、おそらくその日雇いの労働者として働かせられている。しかし、その労働の中で、偶然に起こった畑の中の宝との出会いは、彼の人生をその根底から変えてしまうこととなる。彼は持てる全てを売り払ってしまう。つまり、彼の生きてきた全てに、この一瞬の出会いは優っている。二番目の商人は、市場で偶然に高価な真珠を発見する。この真珠との出会いはこの商人の価値観・優先順位を根底から変えてしまう。この商人もまた、自分の持てる全てを売り払ってしまう。彼の生きてきた全てに対して、この真珠は優るものであった。いわば、この二人はの人生は、宝と真珠に敗北していると言える。彼らがその人生の中で築き上げてきたこと、成し遂げてきたこと、それら全ては、偶然に彼らが出会ったに過ぎないものに勝つことが出来ず、彼らの人生は敗北してしまった。けれども、彼らは大いなる喜びに満たされたと聖書は語る。
 この二つのたとえの中で能動的・主体的な働きを担っているのは、人ではなく、宝であり真珠の方である。私が、宝・真珠を作るのでもなければ、私が自らを宝・真珠にふさわしく造り上げるのでもない。それらとの出会いによって、私たちは打ち負かされ、変えられて行くのである。まさにその意味で、キリストの弟子であるということは、神の国との出会いによって日々打ち負かされ、変えられてゆくことに他ならない。自分の知る正しさを貫き通し、純粋な集団を造り上げることこそが、信仰者の模範であると私たちは時として誤解する。しかし、主イエスが語ることはむしろ、私たち自身が、天の国との出会いによって、私が打ち負かされ、変えられてゆくことを喜ぶことなのである。
 キリストは、十字架という、この地上におけるもっとも悲惨な敗北へと向かわれた。しかし、その敗北こそが、新しい時、神の愛と平和がこの世界に満ちる真の神の国・天の国が実現する時の始まりであった。私たちの目には敗北としか見えないこと、自分自身が打ち負かされることの向こう側にこそ、真の平和と希望があることを主イエスの十字架は私たちに伝えている。平和を生み出す働き、それは私たちが自らの正しさ・理想・純粋さを貫き通すことではない。むしろ、そうした私たちの有り様が、神の国との出会いを通して根底から変えられることによって、初めてこの世界に、神の愛を伝えることが、平和をもたらすことができるのである。

2011年8月9日火曜日

[説教要旨]2011/8/7「平和の種」マタイ13:24-35

聖霊降臨後第8主日・平和の主日

初めの日課 イザヤ 44:6-8 【旧約・1133頁】
第二の日課 ローマ 8:26-30 【新約・285頁】
福音の日課 マタイ 13:24-35 【新約・25頁】

 先週の日課に引き続き、天の国のたとえを主イエスは語られる。「毒麦のたとえ」「からし種のたとえ」「パン種のたとえ」がここでは語られている。そのいずれも、わかりやすいとは言えないものばかりである。主イエスはこれらのたとえを群衆に対して語られたことが34節で確認されるが、同時にそれらは「隠されている」ことであると35節で示唆されている。
 私達人間は、何が神のみこころであり、何が神の計画であるのかということを、知ることが出来ない。それにもかかわらず、時として、「どこに神はいるのか」「神がおられるならば、なぜこのような悪が存在するのか」と自分に問い、「このような悪が存在するのなら、神はおられない」と結論し、ただ絶望へと向かう。まさにその意味で、主イエスにおいて実現している天の国は、私達の目からは隠されているのである。
 しかし、主イエスは、そのような世界のただ中にこそ、平和の福音を告げられた。そして、その十字架によって、敵意という隔ての壁を取り壊し、二つのものを一つにされた。主イエスの平和の福音は、私達が守るべきと思っていた私達の常識と価値観を守るのではなく、むしろ揺さぶり、破壊する。
 毒麦のたとえが語るものは、私達人間の目に見えるところのものによって断罪することは出来ないということである。そしてからし種・パン種のたとえは、その最初の姿の中には、最終的な姿を見出すことは出来ないということが語られている。
 神の働きはいつでも私達が望むような姿で私達の前に現れる訳ではない。しかし、それは私達の間で確実に存在していることを主イエスは語られる。
 天の国に望みをおき、地上の平和を望むということ、それは決して単に今私が思い描く安全・安心を願うことなのではない。それはむしろ、この地上において、見えない神の働きを信頼することなのである。それは、人の思い描く純粋さや豊かさを一部断念することでもある。しかし、それこそがまさに、自分の十字架を背負って、主イエスの後に私達が従うことであり、それこそが平和の種をまき続ける働きなのである。
 その平和の種はからし種のように小さく空しいものであるように私達の目には映る。しかし、主イエスにおいて始まっている神の働きは、私達の思いと理解を超えた結末を準備へと私達を導く。

2011年8月4日木曜日

[説教要旨]2011/07/31「希望の種をまく」マタイ13:1-9

聖霊降臨後第7主日

初めの日課 イザヤ 55:10-11 【旧約・1153頁】
第二の日課 ローマ 8:18-25 【新約・284頁】
福音の日課 マタイ 13:1-9 【新約・24頁】

 マタイ福音書のなかでもこの13章には「たとえ」という言葉が集中して用いられている。それは、この13章の主題が天の国について、主イエスがこの地上に宣べ伝えたことであることと深い関係がある。天の国について語るためには、この「たとえ」という方法が、最もふさわしかったのである。そしてまた、12章では主イエスに従う者と敵対する者とのコントラストが鋭く描き出されていたが、この天の国についてのたとえが語られるに至って、そのコントラストはさらに強調されることとなる。
 本日の福音書では、「種まきのたとえ」が語られている。このたとえにおいて注目すべき場、失われる種の割合の多さである。実に蒔かれた種の4分の3は失われてしまうことになる。小麦の収穫倍率は現在でこそ15~20倍であるが、中世まではせいぜい3倍程度に過ぎなかった。したがって、実際にこのたとえの通りであれば4分の1減収する結果にしかならない。そうであるならば、種蒔く人の働きは空しく徒労に終わるだけ、種まきなど無意味である、そのように通常であれば考えることとなる。しかし、そうした私たちに人間の予想を裏切って、100倍、60倍、30倍という実りを神は与えられることを、主イエスは語られる。
 もし私たちが、自分の目に見える領域、世の常識で予想することのできる領域の中で考えるらならば、失われたものの大きさに嘆き、わずかに期待される収穫の取り分を少しでも多くしようと奪い合うしかない。あるいは、その働きの空しさに倦み疲れ、種蒔くことを放棄してしまうかもしれない。
 しかし、主イエスは、種を蒔き続けられた。この地上での主イエスの歩みは、たしかに十字架の死という結末を迎えた。それはまさに、この世の常識から言うならば、その働きの結果が挫折と徒労でしかないことを物語っている。けれども、主イエスの歩みは、十字架の死では終わらなかった。たとえ失われるものが多かったとしても、たとえどれほど、その働きが空しいものであるかのように見えたとしても、主なる神は、私たちの思いを遙かに超えた恵みの実りを与えて下さることを、主イエスのその死からの復活は私たちに示しているのである。
 私たちが、自分の意志や知識そして思いのみによって未来を見据えるならば、そこには徒労と挫折そして空しさしか見いだすことが出来ない。しかし主イエスが語られる天の国は私たちにとって未知の領域、神の働かれる領域である。見える・予想できる領域ではなく、見えない・未知の領域にこそ、私たちの予想と思いを遙かに超えた実りの恵みがある。