2009年4月28日火曜日

[説教要旨]2009/4/26「復活の主を知る」

復活後第2主日

初めの日課    使徒言行録 4:5-12   【新約・219頁】
第二の日課    1ヨハネ 1:1-2:2     【新約・441頁】
福音の日課    ヨハネ福 21:1-14    【新約・211頁】

 伝統的なキリスト教の暦では復活祭後第2主日には、詩編33編5節「地は主の慈しみに満ちている」からとられた“Miserikordias Domini”(ミセリコルディアス ドミニ「主の憐み」)という名前が付けられている。この名は、主イエスが死から復活されたことは主なる神の慈しみと憐みがこの地に満ち溢れる出来事であるということ、そしてそれは私たちにとっての永遠の喜びであるという、古代の教会の信仰告白を現代の私たちに伝えている。
 十字架の出来事によって、主イエスが弟子たちの元から失われた後、弟子たちは漁に出掛ける。それは彼らの多くにとっては、もともと慣れ親しんだ職業であった。主イエス亡き今、彼らは、主イエスに出会う以前の生活に戻ろうとしている。しかし、慣れ親しんだはずの漁は、決して実り豊かなものではなかった。彼らは空しいまま、夜明けを迎える。その時、甦られた主イエスは岸辺で弟子たちを待っていた。しかし空しいまま時を過ごす弟子たちには、それが主イエスであることが分からなかった。その男は語る。「船の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ」。そして弟子たちが命じられたとおり網を打つと、「魚があまりにも多くて、もはや網を引き上げることができなかった」。一晩空しいまま繰り返してきた作業は、この男の言葉によって、大いなる実りへと変えられる。その時はじめて、弟子たちは、それが主イエスに他ならないことがわかるのであった。彼らは漁を終えて、主イエスが整えられた食卓を囲む。その時「弟子たちはだれも、『あなたはどなたですか』と問いただそうとはしなかった。主であることをしっていたからである」。
 私たちは、時として人生の中で、生きる意味を見失い、空しく、何の実りも得ることもできないまま時を過ごさねばならない時がある。しかし、そのような時に甦りの主が私たちのもとを訪れられることを、本日の聖書は語る。さらに、主イエスがともにおられる時、そして私たちが主イエスの言葉に聴き従う時、私たちの成す空しい技は実り豊かなものへと変えられることを、聖書は語る。復活の主が私たちに与えられたということ、それは、私たちの目には、失敗と挫折、喪失と敗北としか映らない出来事のその先にこそ、新しい永遠の命が始まっていることを、神が私たちに示されたということに他ならない。私たち人間が「復活の主を知る」とは、それは、自分には失われてしまったと思いこんでいた、生の意味、命の意味を、再び知ることであり、主イエスとの出会いを通して私たちの空しい技が実りへと変えられるということなのである。それはまさに主の憐れみと慈しみに満たされる出来事である。


2009年4月21日火曜日

2009年度 三鷹教会バザーのおしらせ

2009年度 三鷹教会バザーのおしらせ   

イースターを迎え、喜びのうちにお過ごしのことと思います。
さて今年も下記の日程で三鷹教会バザーを開催いたします。

献品、また諸準備など、みなさまのご協力をお願い申し上げます。

2009年度三鷹教会バザー

2009年6月28日(日)12~14時

ルーテル学院大学食堂にて


<バザーまでの準備日程>
 献品の受付    :5/3~6/14
 品物の仕分け   :5/24, 5/31, 6/7
 値付け       :6/14, 6/21
 前日の準備      :6/27(土)

 ※なお勝手ながら、献品についてはできるだけ新品同様の品をお願いしております。事前に三鷹教会集会所(0422-33-1122)までお問い合わせください。


[説教要旨]2009/4/19「わたしは主をみました」

復活後第1主日

初めの日課    使徒言行録 3:11-26    【新約・218頁】
第二の日課    1ヨハネ 5:1-5       【新約・446頁】
福音の日課    マルコ 16:9-18       【新約・97頁】

 伝統的なキリスト教の暦では、復活祭の後の主日に、それぞれラテン語による主題がつけられていた。復活祭後の最初の主日である今日は、“Quasimodogeniti”(クヮシモドゲニティ「新しく生まれた乳飲み子のように」)とされている。それは、復活祭に洗礼を受けることが、古代の慣習であったため、多くの受洗者にとって、この日は受洗後最初の主日礼拝となったからである。このため、この主日は、主イエスの復活という出来事が、ただ主イエスという一人の方に関係する事柄なのではなく、教会に集うすべての者にとって、その命がまさに「新しく生まれた乳飲み子」のようにされているということを、私たちに伝えるのである。
 マルコ16:9-18の部分は、かなり後の時代になってから、他の3つの福音書とのバランスをとるために、他の3つの福音書を要約したものを付加したものと考えられている。そのうちの冒頭の9-11節、マグダラのマリアに起った出来事については、ヨハネ福音書20:11-18が詳しく語っている。ルカ8:2によれば、マグダラのマリアは、主イエスによって「七つの悪霊を追い出していただいた」と書かれている。かつてのマグダラのマリアが、どれほど深い苦しみと悩みのうちにいたのか、ということは想像に難くない。そして主イエスとの出会いを通して、彼女はその苦しみからの解放を与えられたのであろう。その彼女にとって、主イエスが死に、その亡骸すら見つけられないということは、自分の大事なもの全てが失われてしまい、自分は再びかつての苦悩と孤独のうちに引き戻されてしまうかのような、不安と怖れとをもたらす出来事であった。失われたものを前に、彼女にできることはただ泣くだけであった。
 しかし、泣いているその彼女に、復活の主は声をかけられる。そこに立っているのは、もはや、失われてしまったかつての「先生」ではなく、「甦りの主」であった。甦りの主との出会いを通して、泣いていたはずのマグダラのマリアは復活の主の最初の証人として、人々のもとへと派遣されることとなる。「わたしは主を見ました」、そのように語るマグダラのマリアは、もはや涙のうちにはいない。すでに彼女の新しい生は始まっているからである。たしかにそれはまだ新生児のように弱い存在であるかもしれない。しかし、そこには同時に、無限の可能性と溢れ出る命の力がある。復活の主との出会い、それは失われたものではなく、これから出会っていくことになる未来へと、私たちの命を向けさせるのである。


2009年4月15日水曜日

[説教要旨]2009/4/12「復活の朝」

復活祭

初めの日課    イザヤ 25:6-9       【旧約・1098頁】
第二の日課    1コリント 15:21-28   【新約・321頁】
福音の日課    マルコ 16:1-8        【新約・97頁】

 安息日から一夜明けた早朝、週の初めの朝に、女性の弟子たちが、十分ではなかった葬りの準備をするために、主イエスの墓へと向かう。それまで主イエスに付き従ってきた男の弟子たちの意気地の無さに比して、女性たちの行動力と責任感の強さは、古代から現代にいたるまでの教会における女性の役割の大きさを物語っている。
 彼女たちは香料を買い求め、道すがら、墓穴の入り口にある大石をどかして開けるためにどうしたらよいか、ということを心配しながら相談していた。それらは、極めて現実的な準備と心配であり、筋道の上では、手配してしかるべき事柄である。その意味で、この女性たちの態度は極めて現実的であった。しかし、彼女たちの心配と準備はことごとく裏切られる。墓の入り口は既に開いており、墓穴の中に、主イエスの亡骸は無かった。ただ白い長い衣を着た若者によって、主イエスは甦られたことが告げられる。
 人間の視点から見るならば、準備していたことや、心配していたことが全て無駄になったのだから、それらは残念なことである。それどころか正気を失うほど恐ろしい思いをしたのであるから、それは避けられるべき事柄、あってはならない事柄である。しかし、それこそがまさに主イエスの復活の朝の出来事であった。
 私たちは、自分をとりまく物事が、十分に準備され、自らの計画通りに、滞りなく進むことこそが、もっとも良い事であり、それが妨げられることに対して戸惑い、苛立ちを覚え、時として、自分の日常の一角が侵され崩れ去ることに対してどうしようもない不安と恐れに慄くことがある。しかし、復活の朝の出来事、それはまさに、戸惑い、苛立ち、恐れ、不安をいだかずにはいられないような事柄であった。そしてなおかつ、それは尽きることのない恵みと喜びが私たちの間にまさしく与えられた出来事でもあった。
 十字架に死にたまえる主イエス・キリストが、どうじに復活の栄光の主であるという矛盾。それは、私たちの直面する戸惑い、苛立ち、恐れ、不安は、同時に、希望と喜びそして救いと新しい命の始まりなのである。

[説教要旨]2009/4/5「平和が告げられる」

初めの日課    ゼカリヤ 9:9-10     【旧約・1489頁】
第二の日課    フィリピ 2:6-11      【新約・363頁】
福音の日課    マルコ 11:1-11       【新約・83頁】

  マルコ福音書は、主イエスがエルサレムの城砦の門をくぐったところから、復活までの日々を1週間(8日間)として描き出している。それは、私達が今日からイースターを迎えるまでの8日間の一日一日を通して、主イエスが私たちに救いをもたらされた、その十字架と復活の出来事を思い起こすことを助けている。
 旧約聖書ゼカリヤ書は「見よ、あなたの王が来る」と語る。ろばに乗ってエルサレムへとやってくる主イエスに、その言葉は重ねられる。「彼は神に従い、勝利を与えられた者」とその言葉は続く。しかし、「勝利」という言葉と、「ろば」に乗って来る様子、そして「戦いの弓は絶たれ、諸国の民に平和が告げられる」という言葉との間に、私たちはある種の矛盾を感じずにはいられない。勝利とは、相手を圧倒しつくすことであると私たちは考えてしまうからである。古代、「ローマの平和」と呼ばれた時代があった。それはローマ帝国の圧倒的な力による支配を通してもたらされた、平和と繁栄の時代であった。しかし、それはローマの強大な軍事力を背景にしたものであった。やがて、生産力を軍事力の維持拡大のコストが上回ってゆくなかで、ローマの平和もまた、もろくも崩れ去って行くこととなった。力によって押さえつけ、奪い取ることによって成り立つ平和は、その力と同じく、いずれ失われてしまうものでしかない。
 しかし、聖書が主イエスを通して語る「勝利」、そしてその勝利によってもたらされる「平和」は、そのようなものではなかった。イエスは子ろばに乗ってエルサレムへと入る。大きな力などない子ろばは、主イエスによって用いられ、主の十字架と復活への歩みの中で欠くことのできないものとなる。主イエスは、この世では顧みられることなどないような、取るに足らない小さな僅かな力を、世の救いのために用いられる。主イエスがもたらされる平和、それは、強大な力をもって、他者をねじ伏せ、奪い取ることをしなければ成し遂げられないような、そのようなものではない。むしろ、この地上においては取るに足りないとされるような弱いものを用いてこそ成し遂げられる、滅びることのない永遠の平和であった。小さな子ろばに乗ってエルサレムへと入られた主イエスは、弱さの極みである十字架へ向かい、そして復活された。その出来事は、私たちに、真の平和をもたらすものは、何かを示してくださるのである。


[説教要旨]2009/3/29「光として世に来た」

初めの日課    エレミヤ 31:31-34 【旧約・1237頁】
第二の日課    エフェソ 3:14-21 【新約・355頁】
福音の日課    ヨハネ 12:36b-50 【新約・193頁】

 「このように多くのしるしを彼らの目の前で行われたが、彼らはイエスを信じなかった」と37節は語る。ヨハネ福音書において、主イエスはご自身の神の子としてのさまざまな「しるし」を示される。しかしそれによって多くの人の心が動かされるものの、人々に対して主イエスを救い主として信じることを公にさせるには至らない。常識的に考えればそのことは、それらのしるしは主イエスを救い主と信じる根拠として不足であった、ということを意味するであろう。しかし実はむしろ、そのようにして人々から受け入れられない道を主イエスが歩むこそが、主イエスが救い主であることの証左であることを聖書は語る。なぜならば、その道は、十字架の受難へと続くものであり、この十字架を通して、救いは実現するからである。そこには、主イエスを信じることとは、受難への道の中に、真の栄光と救いとを見出すことであるということ、受難への道こそが、暗闇に光がもたらされる道筋であることを、私たちに証している。
  「イザヤは、イエスの栄光を見たので、このように言い、イエスについて語ったのである」(41節)。イザヤが見た主イエスの栄光とは何だったのか。それはまさに、十字架の死と、そこからの復活に他ならない。通常私たちは、栄光とは他を圧倒するような力であり、勝利とは他を蹴散らし滅ぼすことであると考える。そして、それら栄光と勝利とを手にすることで、闇のうちにあって光を得ることが出来ると考える。しかし、聖書が語る主イエスの栄光と勝利は、この世の力によって他を圧倒するのではない。むしろそれは、この世の力を前にして、敗北と挫折へと向かって進むことであると語る。それは、あまりにも荒唐無稽であるように、私たちには思われる。しかし、この世の力によって手にした栄光と勝利、それらはいずれは失われてしまうものでしかない。この世において、永遠に続く栄光と勝利は存在しえない。その意味で、勝利と栄光とは、それを手にした瞬間から、それが失われ、朽ちてしまうことに怯え続けなければならないものなのである。しかし、主なる神が主イエスの敗北と挫折とを通して示された、真の栄光と勝利、それは永遠のものであることを、神は主イエスの復活の出来事によって示された。主イエスの受難と復活は、この世における弱さ・敗北・挫折の中に、朽ちることのない永遠の命があることを私たちに示しているのである。

[説教要旨]2009/3/22「永遠の命を得る」

初めの日課    民数記 21:4-9 【旧約・249頁】
第二の日課    エフェソ 2:4-10 【新約・353頁】
福音の日課    ヨハネ 3:13-21 【新約・167頁】

 現代の日本社会に生きる私たちは、人間もまた商品としての価値を持つことが当然であり、その能力や付加価値によってランク付けされることが当たり前であるかのような日常に直面させられている。しかし、私たち一人一人の命の意味が、そうした能力や付加価値によって決められてしまう時、人は終わることのない競争と落伍することへの不安に脅かされることになる。
 ニコデモは、ユダヤの議員であり、律法の教師であった。それはニコデモが、傍目から見るならば、羨む人もいたであろうような、ある程度の社会的地位を有していたことを物語っている。しかし、そのニコデモは、人眼を避けるかのように夜に独り主イエスを訪ねる。
 ニコデモは彼がこれまで得てきた知識に基づいて、主イエスの言葉を理解しようとするが、「新しく生まれる」ということをどうしても理解できない。私たちもまた、自分達が生きているこの世界の論理にのっとって考えるならば、このニコデモの立場はむしろ極めて「常識的に」物事を理解しているように思われる。しかしむしろ、主イエスが語るのは、そうした私たちの生を成り立たしめているその基盤そのものを問うものである。確かに私たちは、自分が生きていることを知っている。しかし、その命がどこから来たものなのか、そしてどこへと向かうのか、なんのための命なのか、そうした事柄について私たち自身の生活の中から答えを見出すことはできない。しかし、主イエスが天の国と新しい永遠の命について語る時、それは私たちに命の意味を示す。イエスがこの世に来たのは、世を救い、永遠の命を与えるためであった。すなわち、私たちの命とは、主イエスの言葉に出会い、主イエスによって救われ、新しい永遠の命を生きるべき命なのである。
 ニコデモと主イエスとの対話はいつのまにか、主イエスの説教であるかのように語られる。それはまるで、物語の中での会話であったものが、途中からは今聖書を読む私たちに向けて、主イエスが語り始められているかのような印象を与える。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」教師・議員として、世の中の常識的な価値観を背負っているニコデモへ主イエスが語られたこの言葉は、それはこの地上の価値観の中でがんじがらめに捉えられている私たちのところにも、まるでそうしたしがらみなど存在しないかのように、まるで風が吹くかのごとくに届けられる。